別記第百四十四後には駿州瀨名郡へうつり給ひけれい今い瀨名殿と申也木の源五郞い仲秋の御末也彼了俊い文武二道の名將にておはしまして御詠歌なとも多集に入たると申也冷泉爲秀への御うたに心ある友こそかたき世なりけれひとり雨聞秋の夜すから此歌ゆへに歌道い爲秀の御門弟に成給ふと申傳也又後普光恩寺の攝政殿より連歌の御ゆるしを給はらせ給ふと也其比の事にや冷泉爲尹歌道に達し給はぬとて人そしり申事有けれい落書抄落書露顯抄といふ物を了俊のかゝせ給ひけれい其比の御門後圓融院の御製に誰もなと拾はさりけん和歌の浦にめなれぬ玉の殘る光をとかやうにあそはされ下されけると也時の高名にてまし〓〓けるとそすへて御述作の物あまた在之よし承り及といへとも今の世にいつたはらぬにや今川の雙紙なとも了俊のあそはし置れたりと承也言塵抄なとも同御作也又九州御合戰記とてあそはしたる物在之也何事も古人の御あとをいよく吟味すへき御事也今川記第二其比の鎌倉殿勝光院殿滿兼公去應永十七年七月廿二日御年廿三歲にて御早世なり其御子幸王殿御年十二歲にて御代をつかせ給ふ時の管領い上杉安房守長基(俗名憲定)上杉中務入道禪助なりしか禪助い滿兼御逝去の日愁傷にたへかね遁世し殿中より直に宿所へも歸り給はす上總國長柄山に閑居し給ふ其上鎌倉殿おさなく御坐故に人の心もさたまらす野心の族もありけり就中的父滿隆御謀反の企有已に事急なりと風聞有て應永十七年八月十五日幸王殿佐介谷管領長基の舘へ御出有りけり滿隆是を聞召大に驚色々御陳謝有しかとも以の外に沙汰有しかい管領に付色々被仰開て御無事相調て同年の九月三日に若君御所へ歸らせ給ふ其明る年十二月廿二日に御元服有り京公方義持公の御一字を給り持氏と號し奉るかゝりし處に應永十九年二月十八日管領安房守憲定卅八歲にてむなしく成給ふ間故禪助入道の子息右衛門佐禪秀入道管領を給る俗名い氏憲と號す此人父の家を繼き政道たゝしくて禮義を亂らさりしかい民の愁もなく人の恨もあらさりしに鎌倉殿其比御年十七歲御若氣の上やらん管領と不快にて何事によらす上下和睦せさりし折ふし應永廿二年の秋禪秀の家人常陸國小田の役人越幡六郞御勘氣をかうふり本領沒収せられしを禪秀頻にとかなきよしを申あけ懸命の地に安堵させんと色々取持給ふ間鎌倉殿以の外にいかり給ひ已に君臣の恨の基と成りし事こそ淺間敷けれ氏憲申されけるい我已に職に居なから政道の直ならぬと見て正し申さすいたつらに君の非をかそへてあらん事管領に任し何の益か有とて則三か年目に管領をさしあけらるへきよし御そせう有處に鎌倉殿彌々いかり給ひ上をかろんする次第無念なりとの上意にて則故憲定の子息安房守憲基に管領を被仰付禪秀い閑居の體也其年七月の中旬に禪秀ひそかに持氏公の御伯父新御堂小路に御坐滿隆の御所へ參り色々の