御物語共申夜ふけて後御近所へより申けるい抑關東の體如何御覽し候哉御所樣の御政道あしく御外戚の人々讒言おほく諸人の恨みかきりなし某も已に虎口の難に沈みしを本より誤なかりしかい身命を全いたし候か樣に逆なる御政道ならい定て頓て謀反のものありて御當家めつほううたかひなし然い此一跡永く絕果給はん事こそうたてけれと申上る滿隆もつく〓〓と聞召てあたりの人をのけ入道と唯二人被仰合事懇なり入道又申けるいとかく思召立給へ君ハ先年佐介憲定か申けるにより已に御切腹有へきに相きはまり給ふ事有りさる御恨に事よせ早々思召立御代を取給ひて御政道を正しく禮儀をみたり給はすい關東の諸家誰か背可申候入道かくて候へい一方の大將を承り子共一門のものとも相伴ひ頓て鎌倉をい攻落可申候ものをと手にとるやうに申けれい滿隆被仰けるい全く我身代を取榮花にさかへむとの事にあらす持仲を猶子として父子の義有是を大將に取立給へと御けいやく有不日に思立給ふ去程に禪秀方の郞等共兵具を俵に入粮米の如く馬に付人に負せて忍ひ〓〓に鎌倉に入來る滿隆の御內書と禪秀の廻狀を關東中へ觸まはる意趣い京都樣よりの御下知にて持氏公並憲基等を討伐し政道をたゝすへきの趣なり御請申人々にい禪秀か聟新田城主岩松治部大輔同相聟千葉新介兼胤澁川左馬助武州にい丹黨のものとも甲州にい禪秀か舅武田安藝入道小笠原一族伊豆にい狩野介相州にい曾我中村土肥土屋常陸國にい名越佐竹小田小栗下野國にい那須宇都宮奧州にい篠河殿の下知にふたかふ蘆名白川田村石川南部葛西等皆以てゐたかひて打立可申候由御返答申ける近國い已に馳來ると聞えしかい同十月二日滿隆持仲西御門の寳壽院に御出有て御旗を上けられしかい禪秀の郞等塔辻に下り所々を堀きり鹿垣を結て待かけたり木戶の將監此由を見て馳參り告申間持氏大に驚急き御馬にめし大藏の御所を御出塔の辻い敵のかためける間岩殿上の路小坪へ廻り十二所にかゝり前濱より佐介管領の舘へ入給ふ其勢五百餘騎にはすきさりける同四日佐介よりも合戰を初め日夜三日せめ戰ひ敵味方悉つかれ果ける折節禪秀方へい國々より一味の人々加勢有千葉小山を初め數萬騎六本松へ押寄ける間御所方にい梶原但馬守椎津出羽守上田上野守疋田右京進等討死し一陣破れぬれい殘黨まつたからす敵方にい岩松澁川きをひかゝり國〓寺に火をかけせめける程に今川三河守畠山伊豆守と名乘り兩人爰にて討死也此三河守い上杉扇谷中務大輔朝顯の孫也朝顯の息女今川範滿範數の內室と成て上杉式部大夫朝廣以下の子共あまた出來皆鎌倉に伺三男候有り母方の祖父の家を繼上杉を名乘りけりされい此人々も持氏の御身にかはり所々に討死也去間敵軍亂入佐介に火をかけしかい御舘に籠るへきやうなく持氏公も管領も打連て肩瀨腰越にかゝり大磯小機を過行て小田原の宿に落着給ふを土肥土屋夜討に寄ける間上杉兵部大夫等殘留討死し大將達い箱根山へたとり〓〓にけ上りかの別當に案内させ三島に落着給ふ爰許にて評定をこらし先御座の體にて木戶將監を初め御近習の人々名越の國〓寺に籠り敵を爰にてさいきりとめんと密談し持氏公と管領い箱根別當御供申あのひて駿河國瀨名へ御移りありける御跡より參りし人々い是をゆめ程も不知して國〓寺に御座と思ひかの寺へ馳集る處に狩野介伊豆山の衆徒等引率して國〓寺へ押寄せめける間籠る人々元來思ひ切