別記第百四十四別記第百四十四るゝ新田義貞の一類とてい此人計殘りたま〓〓免許をかうふり懸命地に安堵しけるに舅の逆心にともなひて生涯を失ひけるこそむさんの次第なり其外禪秀の末子並岩松の子共有しを郞等ともいたきて忍て皆上方へのほりけり持氏公い今川殿とあたしく管領い緣邊なれい本よりの事といひなから今度の一亂鎌倉破滅なりしに關東諸家靜謐に治まりし事偏に今川殿の武功による故也と京公方義持公の御感の御〓書を被下又持氏公も管領も今度の忠功莫大の恩義難忘次第なりと涙をなかして悅ひ給ふかくて關東の大名小名初めい京都よりの御下知と思ひ禪秀に一味しけるか氏憲の造意勿論なるよし聞て皆持氏公へ降參申ける然共上總國本一揆の族猶背申せしかい木戶內匠助大將として是を退治し給ふ不殘あたかひ奉る其後佐竹上總守も在鎌倉しいろ〓〓陳謝せしかとも不叶て比企谷にて被誅然ともかれか息女の有りしに上杉の息男を合て則佐竹の一跡をい立られし其後常陸國住人小栗孫五郞滿重下野國の住人宇都宮持綱等猶背申せしかい持氏結城の城迄御進發有今川殿より御加勢として三浦右衛門佐石川名兒屋三百餘人先かけの勢に馳加るかくて先手の大將上杉彌四郞憲實小栗の城をせめ落しけれい滿重持綱敗北しけるを鹽谷駿河守追かけ鹽谷といふ處にて二人共に自害しけるを首を捕りて奉る是を初め佐々木入道桃井下野守以下宗徒の敵悉くうたれ持氏い鎌倉に還御有し其頃京公方義持公御隱居有りて若君に征夷大將軍をゆつり奉り給ふ義量の御所と申い此若殿の御事也又其時分甲斐國の武田安藝守い上杉禪秀か舅なりしかい鎌倉殿より上杉憲直大將として追伐有しかい其子惡八郞中途へ張陣して數度合戰しけれとも不叶して父い自害し子共い皆敗北し行方ゑらす成にけりかゝりし處に京都公方義量公御惱のよしきこえけるか次第に重らせ給ひて應永二十三年三月廿七日御年十九歲にて終にむなしく成給ふ長得院殿樣是也天か下の歎たとへていはん方なし父公方の御心の中いか計の事をか思召けんあまた御座御子たにも別れとならいかなしかるへきに只一人御坐若君を先立給ひ天地もくらく月日もなきやうに思召けるとかやされい非常の大赦おこなはれ故禪秀か子共新田岩松か子共以下皆御免をかうふりけり又御世をつき給ふへき御子なくして內々ハ持氏公へ御代をつかせ奉るへきよし思召けるにや御重代の御鎧又御劔以下の御寳物をゆつり奉り給ふ其後ひたすら御歎息のつもりにて中二年有て正長元年正月十八日御年四十三歲にてむなしくならせ給ふ御年もいまた老たまはすさかりの御よはひ成りし程に御存生の中御遺跡の御さためもなかりし故御沒後に至りて御家督の定め評定有或い御連枝の中御門勘衆あまた有是を俗になし奉り御跡御相續有へしと云儀も有或いかねて御望有りし事なれい鎌倉殿をのほせ奉り御相續有へしと云儀も有し關東の方さまにてい持氏公一定御上洛ありて御相續必定と沙汰しける然共京都の管領武衛義淳細川持之朝臣相談有て御連枝の御中にて御相續有へきに相きはまり御門跡方の御名を書て八幡正八まんの御寳前にてくしを取りけるに靑蓮院三位公義圓と申に御園おりさせ給ふ此御門跡い故勝定院殿樣と御一腹にて御心も不敵に可然公方にて御坐よし沙汰有其上細川殿武衛