別記第百四十四侍の頭をする人智惠才覺なく油斷せしめい上下の人に批判せらるゝ事有へき也只行住坐臥佛の衆生を救と諸法に演給ふかことく心〓をくたきて文武兩道を心に捨給ふへからす國民を治事仁義禮智信の一つもかけていあやうき事成へし政道を以て科を行て人の恨なし非義を搆て死罪せしむる時い其科彌深し然ハ因果其科難遁專一臣下忠不忠の者を分別して可恩賞事肝要也莫大の所領を以ても妻子以下無益の働に私用を構弓馬無器用にして人數をも不持輩に所領を宛行事無益たるへし諸家の儀先祖より知行不相遣といへとも時の主人の心持によりて威勢多少を振事專ら合戰の道を翫ひ常に文武二道をわするへからす是一もかけてい(脫歟)貴賤の善惡をあらすして天下の嘲を恥さる儀口惜かるへき次第也仍壁書如件應永十九年二月日沙彌了俊是い了俊の鹿苑院殿樣御代に讒言により遠江國に隱居有りて御弟の仲秋へゆつり給ひし時治部少輔殿政道惡敷して國民ともうとみけるよし聞召て仲秋の後見高木彥六入道弘季を以て此條々を書立て遠州へ送り給ひしかい治部少輔殿大に恥ち給ひ政道を改め身をつゝしみ民を撫忠臣を愛し佞人をありそけ給ひしかい諸子首をかたむけ歸依しける其德天下にかくれなくして當公方義滿公京部へめし上せ仲秋を侍所に補して出頭隙なしときこえし然しより此かた了俊の壁書と號し諸家是を賞翫し天下に流布しけるとかや是當家の龜鑑なり誠に萬代不易の庭訓なるへし就中當家代々におよんて此ケ條を用ひてゆめ〓〓背へからすよし範政の御遺書にもゑるされたり以上永享四壬子年九月十日公方義〓公駿河國富士山御覽の爲京都より御下向其日武佐に御泊十一日い垂井に御泊十二日おり津に御泊十三日矢はきに御泊十四日今橋に御泊十五日橋本に御泊り十六日に遠州府に御泊十七日駿河國藤枝鬼巖寺御下着雨少時雨て晩方より晴て月い有明にて急き御立同十八日に御着先小野繩手にして御輿を立られ御覽して前後左右とよみあひ御跡いいまた藤枝五六里の程何となくつたへ〓〓山も川もひゝきわたりけるとなん御着府則富士御覽の亭にすくに御あかり有てみすいいかて思ひ知へき言の葉も及はぬ富士と兼て聞しを義〓公君かみむけふの爲にや昔より積りいそめしふしの白雪範政同十九日朝日影さすよりふしの高根なる雪も一あほ色まさるかな義〓公御返し紅の雪を高ねにあらはして富士よりいつる朝日かけかな範政月雪の一方ならぬ詠めゆへふしにみしかき秋の夜半かな義〓公御返し月雪も光を添て富士のねの動きなき世の程を見せつゝ同廿日朝御わたほうしまいらるへきよし有て頓て御ひたひに打をかせ給て義〓公範政義〓公範政義〓公