すいかゝ如此の御まかなひ御申候ける也諸大名の宿所い御風呂湯殿の御用意御樽二十荷三十荷美物以下毎日の事ともを臨川坊海汁法師常に物かたりしに今かたるやうに覺候まて書にて候只昔のことをくはしく御ふり候得者自他の忠の程をもあろしめすへく候委細に御智候てさて御智候はぬやうに何事も又大やうにや御つらん大名にも高下あな〓〓御わたり候けにも御供衆外樣奉公衆ともの次第わけ〓〓御知候て肝要候此一册に候細河下野守同右馬頭山名中務大輔なとい御供衆と見之候こゝもとむまれかはり候て無案內にてありけに候本マ部呼んればティ率率何くんぐ言葉候はおやくいい＼マモ書きの次築いよく〓〓候はんすらんと注申上候返々物あり候衆い一笑々々八旬有餘書之今川記第四都鄙不快の由來者鎌倉持氏公内々思召立けるい義持公御存生之時御子なくして持氏に御跡をゆつり奉るへき由御けいやく有しを細川殿の御はからひにて今の公方靑蓮院殿御世をつき給ふ故鎌倉殿口惜く思召事の次もあらい思君立へきもやうなり管領上杉殿いとてもかくても京都の御下知にあたかひ給ふ間內々君臣不快にて有りけり永享八年の事にや信濃國にて小笠原大膳大夫入道と同國村上中務大輔と合戰に及ふ村上い元來鎌倉へ申通しける間使を以鎌倉殿を奉願間持氏公より桃井を大將として那波高山の人々已に打立けるを上杉憲實いさめ申けるい信濃國い京都の御分國なりかの國の守護人を御退洛可有事京都樣の御前不可然よし申留ける是より彌々持氏公と憲實と不快に成行同九年四月武州榎下城主上杉陸奥守憲直を大將として重而信州へ發向有へしと打立ける何者の申出しけるやらん此討手い信州の事にあらす憲實を可被誅よし聞えける間憲實のおんこの人々國々より馳集る六月中より鎌倉中以の外に猥騒し上杉の家人大石憲重長尾景仲かやうの事を申出して持氏公と上杉を不快になし申由聞えけれい兩人を籠居すへきと被仰下又公方家にい一色直兼上杉憲直等憲實をさゝへ申かやうに雜說出來と風聞有し程に則此人々を三浦へ追下し互に御和談有けれとも心中い猶々不平の體也永享十年六月持氏公の若君天王殿御元服の事有憲實いさめ申けるい先例にまかせ京都樣の御一字を御申下し可然と申上けるに持氏公何事も憲實の異見を聞召不入ける間つるが岡の社壇にて御元服有り八幡宮を島帽子親と被成足利太郞義久と名つけたまふ其時先年三浦へ下りし一色宮內大輔上杉陸奥守をも召返され此祝儀として憲實出仕あらい生害あるへきよし御內談ときこえし此由何者か憲實へ申けるにや病氣とて出仕なしかやうに種々雜說ありて互に不快に成行けれい扇谷修理大夫千葉介以下色々和平の儀申けれとも不叶して憲實い讒言のかれかたし御敵に成らんより自害せんと有りしかとも家人ともいさめ先々落行て科なきよし陳し申へきよしにて上州へ落行給ふ然に御使有りてなため給はヽ和談に成へきに讒言おほくして兩一色を大將として討手に下さるヽ持氏公も武州高安寺まて御出有りけり