別記第百四十四鎌倉の御留守居い三浦介時高に被仰付しに三浦介い今川殿と申通しける事多年なりしかい今川殿より內々被仰越事ありて忽にひるかへり京方に成鎌倉を明て三浦へ歸り一族を催し鎌倉へおし寄せ御留守を攻ける間若君をい扇谷へのかせ奉り築田河内守同出羽守名塚左衛門等殘り止り合戰して討死し御所に火をかけ一時の烟と燒にける持氏公此由聞召て鎌倉へ御馬を返し給ふに千葉介も御敵に成行上州の討手も軍散々に落失けれい兩一色も引返しけ京都より持氏公の討手の大將として故禪秀の子息上杉中務少輔持房同治部少輔〓朝御旗を給りて發向しける間遠江國住人橫地勝間田先陣として伊豆代官寺尾左衛門案內者に賴同九月十日箱根山を越ける程に持氏の御味方大森伊豆守箱根法印等わつかに百騎計にて水呑の邊にまちかけ高山より一文字に突てかゝりし程に京方人々散々打負橫地い爰にて討死し三河遠江の人々多以て此所にてうたれ寺尾左衛門兄弟深手負て引退く第二度目の合戰に河野小笠原武田一つに成て同十一日攻來る處に筥根別當大森の人々くつきやうの惡所に引かけ先のことく山上より懸下しけれい京勢引退き三島にもたまり得す沼津眞門に陣を取てあはらく息をそ休めける然に今川上總介泰範京都の仰を蒙り關口四郞小笠原掃部助齋藤加賀守葛山を先かけの大將として足柄山を越て關本の宿に陣取る是を聞て持氏兩上杉陸奥守大將として二階堂下總守宍戶備前守海老名上野介以下三百餘人發向す今川勢關本を立て相州早川尻成田と云所に押寄同七月廿四日散々責戰ひ憲直打負けれい家人肥田勘解由足立萩窪討死し憲直を初め二階堂宍戶海老名悉く數軍して鎌倉へ引返す京都大將上杉持房も越山有りて今川勢と一つになる此人々高麗寺山に陣を取り鎌倉をせめんとうかゝひける鎌倉方よりも猶木戶左近持季百餘騎にて對陣しける處に憲實上州より攻上りける所持氏公の御馬廻皆憲實へ降參有けれい力にをよはす持氏公鎌倉へ返り給ふに三浦のともから防矢射かけて鎌倉へ入給ふへき樣もなし金澤の稱名寺へ御移り有り爰にて叶ましとお思召けん御出家有りけり法名道繼と申けり今度の讒者の張本一色直兼上杉憲泰二人郞等五十三人此所にて憲實か爲にうたれ或い自害してうせにけり其後二月十日鎌倉の永安寺にて持氏公滿貞御兄弟共御自害をすゝめ奉る若君義久も御切腹有り其後上杉憲實も主君を亡し奉りめいわくして出家し隠居有り弟兵庫頭〓方代官として關東の成敗を司る其後持氏公の御子二人日光山にかくれ給ひしか結城氏朝を御たのみ有りしかい甲斐々々敷たのまれ申數百人馳集り籠城しけれい此由京都へ申千カを開御代言してして若持爲同合衆議制御所属のをあてもの気動も取卷攻けるに籠る處の猛勢い少もひるます日夜旦暮に合戰し更に落へきやうもなし其比信濃大井越前守結城の加勢に馳來ると聞えし程に上杉三郞重方上州へ馳向ふ又箱根法印兄弟大森伊豆守鎌倉をうかゝひけると聞えしかい今川上總介範政に被仰駿河勢を引率して足柄山を越て平塚に陣を取り蒲原播磨守國府津に陣取て待かけたり然に永享十二年改元有嘉吉と號す四月十六日結城の城を四方一度に攻破り數千人籠し人々