大將結城右馬頭父子名家の面々三百餘人以上軍兵五百餘騎自害し或い討死して失にけり今川式部丞氏廣も此合戰に討死也是い今川の一門範滿の孫上杉式部大夫朝廣と言ひし人の子なり持氏公とけいやく不淺しか鎌倉の合戰にいのかれて此時討死しけり若君達もいけとり申同五月御上洛ありて美濃國埀井の金輪寺にて御自害有り此度關東に干戈うこき諸家難儀の思ひをなす折ふし今川勢兩度に及ひて越山有り粉骨の忠節比類なしとて義〓公御感のあまり御聞有りて今川範政に副將軍口給りけり是又今川家の名譽の其一也京都公方義〓公あまり物荒き御振舞諸家の人々少々上意に背輩討手を被下被誅去年五月十五日一色左京大夫義貫も大和國三輪にて一族三百人自害して失ぬ土岐世保刑部大輔も同月十六日細川讃岐守發向して打取ける諸大名も名家の面々も我身の上とや思ひけん今や上意にさかひ討手をや被下るヽと魂を消さすと云事なし然に赤松左京大夫滿祐も折ふし御不審をかうふる事有是い妹を公方へ宮仕に奉りしを御生害有し事をうらみ奉る故也然とも無程御赦免をかうむりける又其時分赤松入道の舘の泉水に鴨の子をうみたるよしきこえける間是を御詠覽の爲近日彼舘に御成有へきよし被仰出間赤松大によろこひ其用意有し折ふしあるもの申樣今度の御成の次てに赤松を御成敗有へきよし思召立と聞えけれ赤松是を聞て一族若黨數輩の軍兵を內に籠置待かけたり其日にも成しかい上樣にい更に御こゝろもなかりしやらん何の御用意もなくゆう〓〓と御成有已に御能一番初り諸人見物して居たる處に庭上へ馬を切て追はなし其まきれに屏風のかけより軍兵あまた切て出て御手をとり引立申御首を打落奉る山名中務大輔を初あまたの人々御供に討死しける武衛殿を初めとして御供の人々防くへきやうもなくしてついちをこしからき命生て敗北しけれい赤松もたてあふものなくして御首を持て分國なれいとて播州へ下り城山のあろに楯籠りけれい京都より則時刻をうつさす京極細川土岐武田二千餘騎馳向ひける赤松逆寄にして蟻坂合戰に打勝けれい京勢も城をい中々攻むともせす對陣取り居たりしに山名左衛門佐持豐但馬口よりからめてに廻りき山の城をせめしかい赤松同名あまた山名かたへ降參して無程城を攻落しけれい滿祐兄弟共自害し子息則康い伊勢國司を賴て落行けるを國司是を誅して首を収り京都へ奉りける此亂駿河へ聞ねしかい上意を待にもおよはす今川上總助範政ハ國に留り子息五郞範忠軍兵千餘騎にて打立尾州〓田に着陣の時山名か赤松を討捕首上洛のよし聞えけれい軍兵い引返すさりなから是迄參陣の驗にとて石川八郎左衛門新野左馬助菴原安房守二百餘騎にて上洛す京都にい嘉吉二年十一月十七日若君御元服有り義勝と號し奉り征夷將軍に備り給ふ上下目出度と悅ひ各々歸國有り山名御主君の御敵をうち申萬代迄の高名比類なしと感せぬ人もなかりけり其年今川上總介範政御不例の事有り頻りに重らせ給ひしか終に空く成給ふ法名道賀と號す全林寺殿と申奉る御子範忠元來御家督を繼たはしけれい則上總介に被任今川上總分と申奉る御母上杉扇谷殿の御息女にて關東方とも親敷おはしける此殿も大力量有荒馬のりの强弓