別記第百四十四別記第百四十四無雙の大將とそ聞えし嘉吉三年七月廿日京公方若御所御年十才にて御早世有て則御弟の三春御前御元服有りて征夷將軍に備り給ふ後にい東山殿と申たる御事なり御名乘い義政と申ける其頃西京の一揆起り都のさはきと成しかい日野權大納言入道有光卿子息左大辨資親の謀反の企有りとて生捕奉り父子共誅せられし又南方の御敵楠木雅樂助を初として紀伊國の宮方本起も元ハ折そとしてもしてろって季空交通過ぎ絹美秀とて融固でしの合戰に打まけ粉河寺に引籠りしか畠山の人々加勢あり二度軍を起終にい打勝て御敵の首共取り上洛しける寳德二年十二月又鎌倉に兵亂起りしい當鎌倉殿父持氏生害の時はおさなくておはしましける上杉持朝同〓方長尾〔脫"))名名の人々京都へ申上持氏の一跡をなかく絕可申事をかなしみ成氏を迎申持氏の御跡に備へ奉り憲實末子を取たて山內殿にすゑ申憲忠と號し已に數年鎌倉中無爲成りあに故結城右馬頭か子息と成氏公御對談有り互にむかしを語り給ひ御父持氏憲實と不快故御生害のよし御談合あり憲實の子なれはとて憲忠を討捕給ふ是により上杉の家來の人々と成氏の御家來日々夜々の合戰やむ事なし今川殿い上杉と御一味にて每度御加勢有といへとも範忠其時分御病氣也御息五郞義忠若輩にて御座ける故今度い御加勢の爲に越山もなかりける又故了俊の御跡六郞治部少輔殿御逝去有りしかいその御領河井堀越中村湊の領家屋形より御支配有へけれとも先京都の御下知を蒙ふりともかくも御はからひあるへけれとて京都へ御申の事有り伊豆國住人狩野助入道同七郞左衛門先年禪秀に一味し伊豆國にい安堵せすして遠州に有しか理不盡に申かすめかの御跡を拜領しける天鑑私しなくして謀略を以押て申給し故に無程おごり上意に背申遠江國橫地勝間田等に京都より被仰付寬正六年八月三日父子共にうたれ自害して亡ひ失けり今川治部少輔殿早世の後御領所も京都より御下知に成又遠州の住人等久野小笠原の人々いもとのことく駿河の御下知にあたかひ其外尾州の武衛殿御下知に付ともからもあり京都へ上洛し殿中の御直勤を望むともから多し是い遠江國侍にて治部少輔殿と申通したる人々也三河國住人も武衛殿に屬し申族もあり駿河へ在府の人々もありけり其比吉良屋形左兵衛佐義眞い多年御在京なり東條義藤御在國なりしかとも東條西條つねに御中よからす御家風の面々つねに合戰しける間よの國侍とも二方に成て吉良殿御下知を背きけり其中にも丸山中務入道父子大塲二郞左衛門築田左京亮なといふもの額田郡井の口と云所に楯籠り京都の御下知をも不用又駿河國へも音信もなし尾張衆とも不通にて諸牢人を集め鎌倉殿の御下知のよし申僞りて京都へ運送の官物ともきらはす狼藉あきりなりける間京都より故一色左京大夫の御家人牧野出羽守仁木殿侍西〓六郞兵衛といふもの兩人に被仰付數百人押寄三日三夜に攻落して悉く討捕り然とも大將分のものい堀を越て落行けり是等猶所々に分散し狼藉たえさりしかい重て京都の御下知として三河國の御家人松平和泉守入道十田彈正父子に被仰付是を御退治有りしかい丸山い大平〓にて十田にうたれ大塲次郞左衛門い深溝にて松平和