別記第百四十四別記第百四十四泉守か子息大炊助にうたれ首とも京都へ上りけり然に蘆谷助三郞大塲長滿寺と云もののかれ來りて駿河國丸子のおく觀勝院と云寺にかくれ居たりしを折ふし今川五郞殿駿府より宇都山邊に鷹野の爲に出給ひしに所の民とも申けるい此兩三日上下三十人計にてあか〓〓の體のもの此寺に籠りけるよし申間御供の若侍とも百餘人則かの寺をとりまきける何ものそと尋けれいかの惡黨とも答けるい鎌倉成氏の家人のよし申扨い命を助け送らるへし何故に爰に籠るそととひけれい分明に返事もなく頓て切て出散々に戰ひけるに御供の人々俄の事にてい有りあはてさはく義忠も御馬をよせられまヽ矢の征矢にて惡黨三人射ふせ給ふ其外生捕五人あり或い自害して一人も不殘亡ひけり生捕に尋給へい三河國の惡黨を結しものともなり則齋藤加賀守を付て京都へ引まいらせ給ふ其時瀨名陸奥守未源六郞とて若年なりしか義忠の御前に進出申けるい君子い刑人を近つけすと申にあれ體のものに御馬をよせられ御矢をはなし給ふ事大將の恥辱なりといさめ申て此大將い必不慮の御あやまちあるへく重てがヽる御働勿體なきよし人々にも申けるまことに源六郞か申されし如く後に義忠い流矢にあたりてうせ給ふ鎌倉殿成氏公と上杉衆合戰度々也成氏打負て下總國古河へ御移り有り今川殿範忠も其年薨逝ありけり京公方義政公の御連枝天龍寺の僧にて御坐を還俗し奉り左兵衛督政智と名つけ申關東へ御下向有り然とも鎌倉い猶成氏にあたかふ人々おほしよの主君を備へ奉るへき事あやうしとて上杉の分國伊豆の北條に御所作りをかりに定め兩上杉もかの御下知を仰き奉る故禪秀の子治部少輔〓朝を御供にて伊豆の堀越に移り給へい皆豆州樣とも堀越の御所とも申奉る京公方義政御年四十に及ひ給ふを御子なくして御弟淨土寺の御門跡にて御座候を還俗させ奉り御代をゆつり申さるへきよしにて父子の御けいやく有今出河殿と申奉る其後又御臺所の御腹に若君御誕生ありしかい御養子にも御代をゆつり奉る事なし今出河殿い細川右京大夫を賴ませ給ふ若君い又山名左衛門佐を賴ませ給ふ山名細川聟勇なりしか共二人なから我か若君を將軍の位に備へ可申候との爭ひにて應仁元年より京中に軍起りて五畿七道も亂れ軍兵馳上り合戰やむ事なし上下鬪爭かきりなし今川義忠公い豆州樣と御相談有り分國の仕置有軍勢を催し京都の御難義あらい馳上るへき由の御用意にて京家の御一左右を相待給ふ處に京都公方樣い管領細川右京兆勝元御一味にて花の御所に御座今出川殿ハ伊勢國へ御下向有りしか後にい西陣へ御上洛有山名方へ迎奉ると聞えける間今川義忠いつまてかくて有へきとて分國の勢千餘騎引率先陣原小笠原笠原濱松菴原新野を先として後陳い高木藏人葛山朝比奈丹波守等也御上洛有しかい山名殿よりも道迄御使有色々賴み御申有しかとも義忠い公方の御けいこの爲に罷登り候何方にても義政御所の御坐御方へ可參よし御返事有花の御所細川殿へ御參り有り勝元大によろこひ頓て御對面有り則公方樣被懸御目二百餘日花の御所の御けいこ有しかい其後山名殿播磨國へ下向有り御敵皆降參ありしかい細川殿被申けるい京都の合戰にい此方志を通る人々あまた候へい君の御けいこも心安いたし候へし此程