い毎度味方勝色に候へい萬事思置事なし只東海道の人々三河遠江よりやゝもすれい武衛義康に屬してせめ上り候へい御分國に御下向有りてかれらを御退治有りて海道一遍御管領候て重て難儀の事あらい御勢を御のほせ候いゝ公私第一の御忠勤たるへきよし公方の上意被成と被仰下候間義忠畏と領掌し本國へ御下向有り武衛方の人々を退治の用意有しに遠江三河の住人武衛に心をよせしともから數百人皆今川殿へ降參しける文明七年の春遠江國住人橫地四郞兵衛勝田修理亮謀反を起し武衛殿に內通ゑ故狩野介か舘を城郭にかまへ楯籠惡逆あきりなりしかい今川義忠駿河を打立久野佐渡守奧山民部少輔杉森外記三浦次郞左衛門岡部五郞兵衛御供にて五百餘騎を二手に作り橫地勝間田か城を取卷夜晝息をもつかせす攻戰ひ七日に當る夜中兩人ともに討死し子共郞等とも皆敗北しけれい御本意をとけられ頓て駿河へ御馬を返さるゝ時不圖に一揆起り鹽見坂にて切てかゝりしかい俄の事にてい有り夜中の事なれい御供の人々さはくといへとも義忠いすこしもさはき給はす御馬を立なをし自身切て落し東西を乘まはし下知して一揆の輩皆追落し討捕給ふ然といへともいつくより來りけん流矢一つ飛來り大將の御わきにのふかに立いたてにて次第々々によはり給ふ其後町屋へ入奉り色々いたはり申けれ共甲斐なく其明朝御年廿八にて御逝去あり御供の人々せんかたなくして御死骸の御供申駿河國へ歸りて御葬禮いとなみ奉る長保寺殿と號し申御道號い桂山宗公と申ける爰に今川の一門瀨名關口新野入野なこやかの家の老臣三浦兩朝比奈菴原由比の人々二つに分て不快に成て巳に合戰に及ふ是主人御幼少の間私の威を專して爭ひける故也然間御家督龍王殿御母北川殿い御近習のともから引具し奉り忍ひて山西と云所へかくし置申ける人是をい不知けり是い家來の族二つに分て合戰あれハ何方へ成共龍王殿の御入有し方御方と成て一方を御敵とて退治あらん事をむさんに思召故也兩方なから主君へ合ひ奉り逆心の事いなかりしなり唯日比權を爭ひし故かやうに數度合戰ありしと聞えし去程に駿河國義忠討死被成其跡大に亂れ合戰數度におよひし事關東に聞えけれい伊豆の御所より上杉治部少輔政憲を大將として三百余騎にて馳向ふ上杉扇谷修理大夫殿より代官として太田左衛門大夫三百餘騎にて馳登り兩陣狐か崎八幡山に陣とりて駿河衆の兩陣へ使を以申送けるい抑今度豆州樣扇谷殿より我々罷向ひし意趣い今川殿御討死之跡御息御幼少にて上をかろんし各々私の動闘何事そや何方にても候へ今川殿へ逆心あらん方に向ひ一矢仕り候へとの上命をふくみ罷り向ひ候定て一方い御敵なるへし御返答次第に一合戰可仕と委細申送りけれい兩陣なから陳答にをよいすあらけて陣を引たりけり然とも猶和談なかりしかは太田上杉御舘へ參り評定し和談のはかりことをめくらす處に龍王殿御母い北川殿と申て京公方の御執事伊勢守殿御めいなり先年御上洛の時かりそめ迎給ひ若君誕生ありしかい北川殿とて新殿を作り居給ふ其弟伊勢新九郞長氏と申人其比備中國より京へのほり今出川殿へ付申されしか今出川殿伊勢へ御下向の時御供に下りそれよりあね君をたつねて駿河國へ下向ありしか折節此亂に參り逢ひ關東より加勢の兩大將に相談ありけるいかやうに家來