當千と呼れたる小田部出羽か一子同姓孫九郞泰行とし十八歲去る比小塲三河守不恙の仕方其節討はたすへきの所大勢に隔られ其儘其塲を退き歸り主人ね對し云わけなく吾臆病の恥しめを受候事返々も殘念なれ命をおします向ふたり名有兵者出合給へ見參せんと三尺二寸の大太刀眞向にさしかさし敵陣さしてそ向ふたり爰に城中より黃糸威の鎧を着たる武者一騎河亦權太郞と名乘壹丈餘りの十文字の鍵押とり走り出孫九郞に渡り合互にれとらぬ剛の者秘術を盡あて戰ふたり時に河亦か鍵中よりほつきと打おられ片へに捨て打物ぬきて戰しにいかゝあけん孫九郞內甲を切込れ深手なれい進みかねたる所をたゝみかけて切けれは孫九郞不叶終に權太郎に討れけり義勝大に怒り味方の油斷にて孫九郞を討せたりそれ權太郞討とれと下知をなし懸れかゝれと義勝義則軍配し給ふ城中にい義國義久下知をなし兩陣互に挑み戰ふ暫時之內に寄手堀を越へ逆茂木を打破り城中に責入火花をちらし戰ける時に城の內より石突兵部と名乗大長刀水車のことく打ふり〓〓切て出大勢を事ともせす切立たり陣中より川野邊又七〓(郞脫サ)と云者已に兵部に渡合秘術を盡して戰ふ折ふし川中又次郞三人張に十三束切て放せいあやまたす又七郎にはつしと當りきふ所の深手不叶して忽死す是を見て萩谷新左衛門田代遠江河久津信濃富田大極院四人一度に打入戰ふ暫し戰ふ其內に河久津信濃眞甲を射られ引退大極院い鐵炮に當り死す萩谷踏止め戰しに不叶して引所山田織部か放つ矢馬の尾つゝに當りて三寸程射通され叶はすして大山さして引退く馬い門外にて失にけり義勝大にいかり見苦しき味方の軍兵譬敵鬼神にせよ何程の事あらん引なすゝめと下知し給ひけれと士卒捨鞭を打て落失けり大將も力なく一同引給ふ義國義久勝にのり城より出て追かけたりしも日もはや暮に及けれい引返し給ひけり愛宕權現由來並頓化合戰之事抑愛宕大權現ハ山州愛宕山に建せ給ふ本地將軍地藏〓にて武門の輩軍之守護と尊敬し給ふ然に佐竹冠者昌義都より遷し久慈郡久米村に勸請有大山孫根の城にも南に當りて勸請す別當佐久山大興寺と號時に小塲石塚之兩將籠城せしむる上い又々義勝敗北とい申せとも究て打て出んい必定なり此上い此方より逆寄して踏落し腹居んと立出る大將軍にハ小塲三河守義忠同城之助義久隨ふ士卒四百餘騎引率し宗田の塙打過て八幡舘を通り頓化の原に押寄たりかゝる所に出丸の城〓九万平次がといふ所なりに楯籠る大山かたの人々にい高久播磨保高平次德宿內藏之助田代遠江〓水大內藏大座畠六郞太郞同彌五郎加藤木彈正之勢合て六十餘騎孫根大興寺に楯籠る人々にい三村肥前光盛高次道齋入道三村豐後平澤源太郞小堀五三郞飯村出雲同左馬之助安土右馬之助都合廿八騎是本城12寄來る敵を橫鍵の伏勢なり斯といあらす三河守本城さして責寄る所に石桐藤兵衛忠光申樣今宵雲氣散亂せしい敵此邊に扣ゆるに極りたり伏勢有時い膓か連を亂すと兵書に見へたり然ハ此邊大興寺山の邊心元なしと火をかけ火矢を放ち燒はらふ猛火の中より白旗押立大將と思しきもの蘆毛の馬に金覆輪の鞍をゝき赤地の錦の直垂に緋威の鎧を着し鞦形打たる龍頭の甲金作の太刀滋籐の弓を携千變萬化に乘廻せいさしもの猛將進みかね少し引色見得けるところに猛火の中より三村肥前光盛石桐を目