かけいかに石桐殿引返して勝負有れと聲をかけられ藤兵衛引返しける所を三村肥前三人張に十三束切て放つ矢あやまたす石桐にはつしと當り馬より眞逆さまに落にけり一番に進し石桐打死あけれい大將も力を落し給ふ所に敵の大勢勝にのり責立けれい引色少し見へける所に小塲家山田傳之允大に怒り甲斐なし味方の人々敵い小勢味方い大勢吾等小塲の城を出しより骸い軍門に晒らすとも名い末代に殘さんと一足も引へからす吾と思はん人々い寄合給へやと敵を事ともせすまち請たり續く兵者前小屋右近之助高橋因幡齋藤十太郞山田圖書を初として出丸の城に押寄たり城中の兵高久播磨田代遠江保高平次德宿內藏之助〓水大内藏大座畑六郞太郞同彌五郞加藤木彈正門を開て乘出し敵を中に取籠め前後より散々に責立たりさしもに猛き兩家の勢い必死の戰塲と踏止め矢玉を飛して責戰ふ頓化保良佐久一同に草木も赤けに成にけり漸其夜も明かたになり朝露深く鎧の色旗の見分もなりかたし一陣に向て大座畑六郞太郞同彌五郞强弓の勢兵にて三人張に十三束指詰引詰放つ矢當らすと云事なく裏をかすゝと云事なし敵是に射立られ引退く大座畑六郞太郞矢野新左衛門阿久津信濃三人山田傳之允を中に取込め保良佐久大谷にて六郞太郞か矢に當り傳之允馬より落る所を阿久津信濃立より首かき切にけり小塲勢過半打死しけれい三河守を初として石塚の城へそ引にけり死骸い頓化の原に滿々たり凡小塲石塚兩家の侍討れたる者名有大將分石桐藤兵衛黑澤小太郞山田傳之允同新左衛門綿引藤八郞小林平六大久保長八小松軍平羽生縫殿之助齋藤十太郞以上十人雜兵二百人餘頓化の原に身を捨しこそ口惜けれ大山かた此度の軍勝利を得て石塚の耻を雪きける是愛宕權現の御加護也有かたき御事也愛宕山社頭再建之事此度之合戰味方の勝利偏に權現の御加護によりて存の外なる勝利也然るに社頭兵火の爲に燒失し候事無是非次第也此上い急き再興せんと閏四月吉日を撰み大工棟梁大畑內匠に申付普請奉行い飯村出雲高須太郞左衛門承りて釿立こそ初りけり造營半なる所に水戶本城より大城夫難射方演者者以以般小塲石塚大山の面々私の遺恨を以軍器を用國家を騒動せしむる條太夫義重なり將軍家之咎め不輕小塲石塚の兩城へい戶村重大夫發向す大山へい長倉遠江守承りて被參候別て石塜越後守へい小塲大山遺恨之義ともかくも取扱手段も可有之處城之助へ令同心段不宜異見之上承引無之時分ハ早速注進有て此方より可受下知之所無其儀國家を騷かし士卒失ふ事其罪不輕仍て遠慮禁足小塲大山い兩陣ともに閉門ほとなく義勝い南郡小高の城ね移し義久n小之城に移されける于時享保二年丁酉三月吉辰常山廿五世現宥運與是寫者也當寺之秘記也他見不可有者也案此書い天正年中此寺之住寺書する者と見得たり先反訛多追て可正す按に常山い當山の訛ならんか按に當山二十五世現住宥運是を寫者也ならんか按に常山い右以水戶彰考館本收錄畢近藤瓶城