M Kodak Gray Scale Kodak, 2007 TM: Kodak 2 3 4 5 6 M 8 9 10 11 12 13 14 15 B 17 18 19 inches cm 2 3 4 2 3 5 6 7 8 9 10 Kodak Color Control Patches Blue Cyan Green Yellow Red 3 4 10 5 6 15 7 8 11 12 13 14 16 17 18 19 Kodak, 2007 TM: Kodak 3/Color Black Magenta White 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 60 1 2 3 4 5 6 7 8 9 70 769 H36S2爛柯堂茶話
要費桑「回團
795 H365を617150瀬越〓碁文庫殿畠中佐仙予の抽象て留嚴福中隘、第堂名人間忘觀厚ヲル帽、朝〓白干鐵上天流謫仙窠烏納
文政六年四十日林預次郎作干時半面黒先勝盤中征太閤朝鮮征伐〓本因坊元丈此傷を配してん、又乃るすまと賞響をして不十七歳老牛舐犢の表- )偏偏記云
寶·永七年康黨十二月朔日於松平薩摩守殿段位上手中相保本因坊道智琉球人三置屋良里之子三置総體主稱も酒し着ことをし右條招生評爛柯堂基話序古今以琴棊書畫稱四技然有書畫之話而無琴棊之話豈非一欠事乎林先生棊道之伯達也甞對局之餘採据群籍中基事之雅言異行而集爲一部之書題言爛柯堂基話矣今玆欲梓以公于世焉夫棊道之幽隱雨日長夜之閑暇盤上之逸樂斷却無量之念古人爛柯之說良不誣也作書而徵序余余素淺學不文雖然先生之命有敢不可拒之契故不顧大方之誹遂以片言汚卷端焉嘉永紀元孟冬下浣門人上毛逸氏群玉脩誌門人田邊脩書爛柯堂基話序
爛柯堂基話序爛柯堂棊話序才遠於棊者固不可話棊矣遠於文者亦不可話基矣必也棊之與文合子一手而後始可話而已恭惟我烈祖延名匠算砂於當時爾來執伎進者相繼輩出本因坊及林井安有四名家之目以此樹門戶者肩項相接馴致弘化嘉永之盛入品者二百餘人光前古〓後代實爲斯道之洪關焉顧其人於某則近矣但其遠於文是以手能談之而筆不能話之若夫近於文而遠於某也則筆能話之而手不能談之難矣哉某之與文合于一手也是所以有待於吾爛柯林翁歟翁爲以四名家之員技已入上品旁嗜文辭頃萃我邦典故係棊者編爲若干卷名曰爛柯堂基話携示索序余受而讀之抑其容與閑易柔能制剛者吉備和氣數公之棊也詭譎多計狡焉啓封彊者北條足利諸雄之棊也入而爲神沒而爲鬼變幻飄忽不可控揣者織田豐臣二公之基也一征一伐撥其騷亂而反諸至正不假詐力而歸大一統者不問而可見爲我眞人之棊矣方罫之間而氣象萬千可以觀人矣可以觀世矣可以觀治忽興亡矣話之爲用豈可以區々小數〓之哉不唯不可以小數槩識者將有深取於經世之妙機矣此非洞見人事世變於局上而筆能話之者安能如此哉宜矣其難也洵哉其話之有待於吾翁也嘉永二年歲次己酉端月笛浦野田逸撰凡例一本書は我が家十一世の祖元美君の遺著にして定稿とは謂ひ難きも其の名風に世に知られたるものなれば書肆の切望により版行を許すに至れり一篇中の二三條は故ありて之を除きぬ其の他行文用字勗めて原文に從ひ敢て妄に改竄することなかりしも假名遣ひ等より明かに其の誤寫たるを推知するに足るものは間々之を改めたるもあり又口を塡めたるは字體不明なるか或は闘けたるものなり一事を記するに首めに題目を揭げたるもあり或は之なきもあるは未定稿なればなるべし斯は皆補ひて體例を一樣ならしめ且卷首に目次を添へたり覽者の索引にも便なるべきを思ふてなり一某處に本書の定稿本なるものを藏置せる由を聞きたることあれど甚だ疑はし原書に『拜借濟』などいふ附箋の其の儘殘れるより見れば其の所謂定稿本なるものは蓋し借覽者の謄寫せしものなどにはあらずやと思はる一本書曩に曾て某新聞社の需により其の新聞紙上に揭載されたることありしが取捨添刪を加へられたるも少からず彼を讀みたる人の此を觀んには或は怪訝の念を起すもあらんか廬山の眞面目は今始めて全く露はるゝなれば覽者幸に之を諒とせられよ一本書發刊に關し原稿の整理校正等に就ては專ら知人笠井竹南君を煩したり玆に附記して聊か其の勞を謝するの意を表す大正三年十月十七日遠孫林きく識す爛柯堂基話凡例遠孫林きく識す
爛柯堂基話目次燒棊の法の事朝鮮國棊の事琉球國基の事棊の事古く見えたる事棊勢法師の事中務卿と右大臣と圍棊の事朝廷にて盃酌後圍某の事棊手錢の事··黑白棊子を取る古法の事上首把黑下薦把白事七種の事··二三卷之一三正親町帝の勅語の事白石の手簡の事圍棊傳來御尋之事吉備大臣傳圍棊の事國史に見へたる始めの事棊は博奕に入らざる事遣唐使の始りの事博奕日本漢に通ずる始めの事辨正法師が事日本王子唐にて圍棊の事冷暖玉威子三四一四五一四四四五某口傳棊局寸法の事助言助指は固可戒事權現樣御文の事豐臣太閤與菊亭右府圍棊の事水汲論の事本能寺にて圍棊の事仙洞御所にて平賀朝雅圍棊の事五六九九一0 -一0唐石の事二目次
目次義時が宅にて基會の事大久保忠隣配流の日圍棊の事二二甲州家臣春日源五郞之事松平康直失言を怒て打果したる事小花和太兵衞が事三八·三八·三九卷之二基所本因坊道智御答の事金春太夫御答の事本因坊道智將棊上手の事本因坊道智大橋宗桂と職替の業上覽の事本因坊道智中將棊の聖所の事徂徠先生答問書牧野殿圍棊の事西村左馬之介角力の事某を好む人の言に陰陽ある事大御所樣淺野彈正と圍棊の事大御所樣圍棊を御廢被遊事林門入の事源氏物語圍基の事劉仲甫の事三二三三二四五二大··二七二八·二九·二九OO三〇三三·三七卷之三圍棊傳來考權中納言匡房の事明朝象棊の事中將基の事天竺國王圍基の事梁武帝圍基之事曇摩苾提戲を慕て群臣に答へざる事天竺之棊之事達摩見天竺僧行事辨慶傍觀圍基助指の事贈汪叟序大〓名変の事〓朝基者程蘭如之事四二四·四五·四六四六四七·四七四七四八四九四九五〇五〇神君知彼知已たまふ事勝賴圍某の譬をいふ事人は好む所を以て譬を取る事五二五·五二寬蓮法師が事七七寛蓮法師圍某の事七八如佛坊圍棊の判せし事七九楠正行圍棊の事道策が某譜を觀し事本因坊道悅棊の答問觀世太夫謠の三病を論ずる事元祖本因坊算砂基の日記··二德川將軍家御代々中圍某を御好み被遊し御······方々の事八三本因坊算砂基道戯歌之事八三意雲利玄が事··八四名高き人を讀みたる狂歌之事八四七七七八七九卷之四安倍仲麿の話佐々木と工藤遺恨話和田義盛匿信實話佐々木盛綱感和田懇志話和田義盛說工藤祐經計和話棊所の始祖本因坊算砂豐太閤より棊所の證文被下事·五六·六三·六三·六五·六六二·六七卷之五金吾中納言秀秋之事竹中半兵衞軍旅某の譬太閤毛利征伐の事圍棊口傳の事目次·六九七一七三七五卷之六眞衡與秀武不和の事淺野長政黑田如水朝鮮にて圍某の事淺野黑田朝鮮にて圍棊の事八五八六八七次三
目次吉村又左衞門圍棊によりて人を斬殺せし事由井正雪が宅基會の事堀部安兵衞が事杉本九十郞切腹の事原甚四郞諸角助七圍棊に付口論竝信玄捌の事四·····九〇九九三九五·九六秀吉公兩將を評し給ふ事奧平美作守貞能大勇之事祗南海終身圍基を絕事善書雪山が事·天德寺が琵琶を聞しに有感事日蓮上人圍棊の事日蓮良觀法雪之事棊子の精靈之事源氏空蟬の卷の詞竝和歌の事源氏花の賭物竝けんその事官子譜小引·仙榮棊好の事·一五一八一八一九一九二二三二三ニ一九三〇三三卷之七前田慶次與林泉寺賭基の事北條幻庵近去附棊に興ある事·此棊は手見を禁ず·基を圍み居る傍に從者の放屁したりし事···本因坊基會に出て某を圍みし事··處士金をあがなふ事名古屋山三郞賭某の事日本支那兩國共に同時に出生の事0一〇五一〇六····一〇七二〇八〇八卷之九眞田昌幸の事安井算哲が事·心越禪師某者を論ずる事日光御門主長谷川知仙え上手の手相を御推三一三天二三七四二卷之八某聖道策生涯の秀逸一五擧被成し事秋山仙朴戶閉被仰付事··畠中庄作揚屋入被仰付事畠中庄作詩を寄せて家督を祝せし事·阿波國米藏の事快禪幽靈と圍棊の事奧平貞能圍某大勇の事一四三二四五·一四六·一四七二四·一四八一〇〇本因坊家什寶の事六二卷之十一琉球人來聘公儀御會釋之事·六五松平薩摩守殿にて棊會被催候事一六九五安井仙角八段に進みし事··七九從井上因碩琉球屋良里之子え免狀之事··一八一從本因坊道策琉球濱比賀親雲上え免狀之事····一八二寬延戊辰之冬薩州候にて琉球田頭親雲上與那覇里之子與因碩手合〓免狀之事八二琉球國位階之事八四琉球國之事二八六島津家久琉球國征伐之二話一八大琉球人來聘登城之次第八七卷之十羽黑山の修驗者本因坊と圍棊の手合を望し事竝尾州太藏が事善某者を美し儈父が言·善藏珍瓏にて賭棊の事賭基流行の事高庄促午飯話··權中納言定賴の話有感事王粲覆某の事聖目之事竝持棊中押太閤先まねひ棊の事···目次八二八四二八六一八大八七一一四、二三五五五五六五七一八八六〇二六〇目次終五
爛柯堂基話卷之一十一世林元美著見し聞しおもひし事を書遺しのちのうまこの庭の訓へに正親町帝の勅語の事正親町天皇の勅に曰く古への人は末世の人の爲に書を著はす今の世の人は身の爲めに書を隱す愛するは一つにて用ふる所は格別なり謹て按るに本朝古へ學校の政修せず且蘇氏が亂に舊記失ぬ故に遺漏多して徵とするに足らず是を惜代々むと雖も幸に如此難有勅文存す唯幾度も書傳へて後世に遺すべきのみ魅交白石の手簡の事白石手簡に老朽述作のものゝ事御尋候昔し巳來見聞及候程の事世に類例の事に候得共漢事のものは如何程か世に文獻もある事に候て其書も不少候が少しく書をも涉獵し候甲斐には何卒本朝古今の人々手をも不被下候事を取集め置候はゞ本朝に生れ候恩を報し候爲と存て何かと撰述候撰述をも志候迄には又何卒世にも貽り候へかしと存候事勿論に候右は佐久間洞巖に贈る書簡の略なり圍棊傳來御尋之事享保十二年正月廿六日寺社奉行黑田豐後守殿より本因坊竝將棊方大橋宗與方へ御用之儀有之候間只今爛柯堂基話卷之一
爛柯堂基話卷之一罷出候樣申來即刻兩人罷出候處御老中大久保佐渡守殿被仰聞有之間直に罷越候樣被仰付候旨即佐渡守殿え罷越候處御逢被成被仰候旨は某將棊之由來唐にての起り日本へ傳來の時代打方指方等委細に書付可申上旨尤不知事は其通に書付仲ケ間は勿論弟子共の內にても舊き者など隨分念を入致吟味急には成間敷候間兎角示合近日之内持參仕候樣被仰付奉畏候御請仕罷歸即刻本因坊より急御用に付御相談之儀有之間大久保佐渡守殿被召被仰渡候明四ツ時何も參り候樣暮時分申來る如何樣の儀かと手前にても存處無之幸門入隱居朴入儀佐渡守殿御懇意に候故御內意爲聞合夜陰に及候得共早速罷越右之樣子猶又具に御直に被仰聞候不寄存儀嘸々何も困り可申抔被仰候朴入申上候は元來仲ヶ間共所作而巳にて私同樣文盲之者共故書取無覺束奉存候私儀も即本因坊ね參吳候樣申越候故乍隱居も伺公仕候抔御挨拶申上候由又被仰候は先皆々打寄吟味下書御內見可被成候面々計にても無之近來諸藝者に御尋有之就中御役者抔は殊之外六ヶ敷大に致困窮候由御噂共にて朴入篤と承合其趣申聞先安心候儀翌日仙角因碩私宅へ被參何も同伴本因坊ヘ罷越唐のわけ抔書籍の上不案內故文學有之人相招何も相談之上書付相認翌日佐渡守殿え朴入持參入御内見候所存之外能書取一段宜と殊之外御感心御ほめ被成候由尤其中取捨御加筆被成扨々棊之方は是程に埓明候將棊之方中々埓明申間敷候間何も一同の事に候故致世話遣し可然旨被仰候其旨朴入罷歸申聞候所是以存之外宜樣相見幸朴入儀御懇意に候間御願候て御內見に入候樣申達其內存寄共致加筆翌日下書相認朴入ね賴來即持參御內見に入れ候勿論御加筆共有之候て御指圖之通將棊之方へ申遣候此方よりは廿九日佐渡守殿に申遣候書付差出候將基の方は朔日持參兩方とも首尾能納申候右書付左の通口上上圍碁の始は堯舜より起り吉備公歸朝の節より傳來本朝へ流布仕候由承及候尤其已前より相渡候樣にも申傳へ候得共慥の儀は不奉存候圍碁の法古今全體相違無御座候其段玄々棋經竝に其外の書等に相見申候圍基打方唐山にては四角中央にも相互に置き夫れより段々相始申候由本朝の打方と少々相違之樣相見候得共畢竟於勝負差別無御座候依之相考候に始より互に石を置候ては其形勢に基き打方容易に有之候故前々よりの上手にも日本にては只今之通打來候と相見申候異國にては打終り作り候節石を取替申候由承及候其段仕方存不申候前に朝鮮人來朝の節御馳走所にて基の沙汰御座候得共朝鮮人未熟の由にて此方の者とは打不申候琉球人天和年中寶永年中來朝之節松平薩摩守殿にて打申候處日本の通りにて御座候本因坊には三ツ四ツ位の棊にて御座候本朝に於て前々より翫來候處就中信長公の御時より世に發向仕候て秀吉公以來棋所被仰付自是手合等相定來申候以上本安井林因坊角碩入未正井上仙因門月將某方より書出候控左の通口上將棊の起りは孟甞君初て其形を作り其後後周武帝に始り其後又司馬溫公將棊の圖法を作り候由本朝爛柯堂基話卷之一
爛柯堂棊話卷之一四へ傳來は何の時より傳來候哉分明に相知不申候小將棊は古來は王將之頭に醉象を置き左右の金將の頭に猛豹を竝べ置申候其外相替儀無御座候宇治大納言工夫にて醉象猛豹を除き候由夫より上手も出來將基翫來候由承及候唯今の唐の將棊は駒も圓く御座候由又駒を盤の筋目に竝べ申候由承及候左候得ば本朝の將棊と唐の將棊は相違申候と奉存候中將棊大將棊抔有之候得共私共家にては左のみ頓着不仕候儀故得と鍛練不仕候尤何時より始り候とも存不申候本朝に於て前々より將某翫ひ來候處就中信長公御時代より世に發向秀吉公以來將棊所被仰付自是手合等相定來申候以上此書付黑田大橋宗與未豐前守殿に伊藤宗看正月も差出申候大伊大橋藤橋宗宗宗與看壽未正月右之書付林門入家の舊記より抄出す按るに御尋之節御答に申上候通四隅へ互に石を置候ては其形に基きて容易に有之候故前々よりの上手共日本にては只今之通打來候との推察はよき考へなるべし然れ共何れの時代よりといふ事を知らす四十五代聖武帝天平七年吉備公傳來より高手名人其人を聞事なし五十四代仁明天皇承和五年遣唐使あり大使藤原常嗣副使小野篁なり伴勝雄といふ者善棊を以て唐使の員に充らる是唐文宗開成元年に當る紀夏井勝雄に圍某を學ぶ年十餘歲一二年の間に勝雄に超たりといふ五十五代文德帝の御時なり唐宣宗大中七年四月日本王子待詔顧師言と圍基の日鎭神頭といふ手にて王子負し事見えたれば其比は唐風にて打しと思はる僧圖珍智證大師文德天皇仁壽三年入唐は宣宗の大中七年に當る今年遣唐使はなき樣に覺えたり圓珍求法の爲めの入唐か王子も此時なるべし王子の圍棊に鎭神頭と云ふ手にて負けしとあれ共其手に誤あり今〓朝になりても其手を得る者なしと見えて徐星友か兼山堂棊譜にも鎭神頭を云へり王子其手を知らざるは遺憾の事なり別に其基を出して後學のために備ふ棊の傳來の事は博物志曰堯造園某丹朱善之象戯太平御覽云後周武帝所造也其臣王褒爲徑行基有日月星辰目又宋司馬溫公作象戯圖法有將士步卒馬車弩砲之象五雜爼云象戯相傳武王伐紂時之作日本の棊は吉備公前度の入唐の時傳來也元正天皇養老元年入唐聖武天皇天平七年歸朝象戯は後度の入唐の時傳來孝謙天皇天平勝寶四年入唐同六年に歸朝也其時の象戯は今の象戯に異り其後江帥是を發明ありしとなり是今の象戯なり江帥は六十八代後一條院御宇博學宏才の人にて大江匡房也貝原好古か和事始を見るに棊を吉備公傳來と云は俗說なりといへり其後六十代延喜の帝の御時寬蓮といふ者棊聖にて基式を獻せし由見え帝も好み給ひて寛蓮に二ツの御手合なりしよし某圖は傳はらず其基品を觀に由なし八十八代後深草帝の建長五年鎌倉松葉か谷にて日蓮上人と吉祥丸の某譜を見るにその頃迄も未唐風なり百七代正親町天皇天正の比より本因坊算砂利玄坊抔の上手共今の樣に打初しと見えたり其徵は永祿九年武田信玄と高坂彈正との基譜初めに勢子へ打追々勢子へ打しなり之によりて思ふに此頃より漸々今の樣に打習ひしとぞ思はるゝ吉備大臣傳吉備公諱は眞備本姓は下道朝臣父は右衞士少尉國勝其先吉備津彥よりいて世々備中の國に住す公幼より頴悟俊才稍長して學を好む初めて從八位下に叙す靈龜二年公遣唐使多治比縣守安倍仲丸玄昉僧正等爛柯堂基話卷之一
爛柯堂棊話卷之一と同じく入唐して留學受業凡十九年經史を〓究し旁兵法白家暦算衆藝通曉せざるはなし天平七年歸朝して齎し來る所の唐禮一百三十卷大衍曆經一卷大衍曆立成十二卷樂書要錄十卷及び種々の名器を獻す帝大に嘉し正六位を授け大學介に任し尋て中宮亮從五位上に累遷し改て右衞士督となり又從四位下春宮大夫に至り學士をかぬ禮記漢書を授給ふ恩寵殊に渥し改て吉備姓を賜ひ右京大夫に遷さる天平勝寶の始め故ありて筑前守に左降し俄に肥前守に遷り同二年入唐副使となり藤原〓河大伴古麿と同じく唐に行く玄宗皇帝公か才德を感賞有りて銀靑光祿大夫を授け給ふ同六年唐より歸るに及びて其船逆風に逢ひ薩摩益久島に漂着し紀州の牟漏崎と云ふ所より京に入り通議大夫に進み大宰大貳に除す春日部三關土師關成等に詔して公に就て孫武諸葛か兵法を受しむ公建議して筑前怡土城を築き西海道の節度使となる同八年公を召し東寺造の長官とす然れ共病ありて與らず同年藤原押勝反に及びて公を召入て其事を議せしむ因て從三位に叙す賊必奔る事を計り兵を分ち諸道を遮り官軍江州高島三尾崎にて合戰し果して其術に陷り押勝等敗軍して不日に誅せられ忽ち事平く是實に公の力なり爰に於て勳二等を授け參議兼中衞大將正三位に除す明年中納言を經て大納言に轉す又春宮の舊恩によりて擢て從二位右大臣に任す景雲の初め近江にて穀二千石を賜ひ帝公が第に御幸し給ふ又正二位に進み尋て稻十萬束を賜ふ同四年帝御不豫公に勅して中衞左右衞士府たらしむ帝崩す御嗣定らす公等文室淨三大市の皇子の中を立んとす永手良繼百川の大臣等策て光仁帝を立つ公是を歎す年老ひ疾身に纏ひ大職の任治むべからずとて頻に上書し給ふと雖も御許なし復骸骨を乞ふ寶龜二年致仕し同六年十月薨す壽八十三公大納言たる時二柱を壬生門の西に立て題其一曰被官司抑屈者須至此下〓訴其二曰百姓有寃枉者須至此下〓訴竝今彈正臺受理其訴以代登聞鼓云初公西海に在し時對馬に於て私資を以て新田を開發し島中飢饉の備とす本邦大寶中に初めて大學を立ると雖も其式未盡さず天平中公學生四百人をして五經三史明法算術音韻〓〓等の六道を自ら傳授し大學釋奠之儀其備らざる所を稽へ器物の足らざるを補ひ悉く其禮容を設け大に私財を出して是を營む本邦釋奠の禮是より備る又律令廿四條を刪正す延曆中詔して是を用らる甞て私〓類聚三十八篇を著せり實に日本學問の大祖といふべし按るに衆藝通曉せざるなしとあれば棊も此中にあるべしと思ひしに垢芥抄に私〓類聚三十八箇條の中二十六條に不可博奕事とあり此文によりて思へば公より傳來には非ず圍棊の事國史に見へたる始めの事凡そ物を翫べは志を喪ふ中にも圍棊を甚しとす其害昔猶今の如し大伴の宿禰小蟲中臣連東人と某を園みけるに失言しければ小蟲怒て劔を引て之を斬ける右繪本太平廣記藤井懶齋著按るに此事續日本紀に見えたり圍棊の事國史に見みし初め歟續日本紀天平十年七月丙子左兵庫少屬從八位下大伴宿禰小蟲以刀〓殺右兵庫頭外從五位下中臣宮處連東人初小蟲事長屋王頗豪恩遇至適與東人任此寮政事隙相共圍/語語及長屋王憤發而罵遂引劔而斫而殺之東人卽誣〓長屋王事之人也棊は博奕に入らざる事博奕は上古より禁也續日本紀文武天皇元年丁酉七月乙丑の條に曰く禁博戲遊手之徒其居停主人亦與居同罪云々○日本紀略延喜五年七月二十八日の條に曰く今日內舍人大野夏眞配流又捕博戯之輩云々○雙六樗蒲を博戯として罪に行はるゝ事捕亡令雜律及び天平勝寶六年の官符に見えたり角方を用ふるは都
爛柯堂棊話卷之一て雙六に屬す故に延喜彈正式曰雙六者不論高下二切禁斷云僧尼令を見れば僧尼作音樂及博戯一蒲雙謂樽類也耐六〓て百日苦使基琴不在制限」とのせられたり某は博奕に入らずと見えたり遣唐使の始りの事三十五代舒明天皇二年始置遣唐使實當太宗貞觀四年吾邦聘唐之始也博奕天武天皇白鳳十四年天皇御大安殿喚公卿等有博奕と見えたり然れ共其賭物を誠しむるが故に憲章其咎を設く專ら禁ずべき事にこそ日本漢に通ずる始めの事予考ふるに日本漢に通ずるは十一代垂仁天皇八十六年丁巳なり後漢光武卽位五十四年に當る光武紀曰神功皇后元年よりは中元二年春正月辛未東夷倭奴國王遣使奉獻百三十一年己前なり其後十五代神功皇后魏に通ず三十四代推古天皇の御時隋に通ず唐太宗高宗の頃は屢入唐の者ありし樣ずるり等に擧ゞくすは代結純査宗末本產在不斷國會社群論會御地方有三巴汝池上巴汝中巴汝下巴汝地方三百里土地人民豐饒與新羅國相爭彼此不能攝治兵戈相尋学即和賣諸事業的神聖如君高國金會美食欲影器令人過ぎ金高國分析ヒ〓鹽乘津彥命頭上有贅三岐如松力過衆人性亦勇悍也天皇乃遣之鹽乘津彥命奉勅鎭守此外國朝貢之始也其後十五代神功皇后三韓を征伐十六代應神帝十五年甲辰阿直岐王仁等を徵すそれより百濟高麗の者共不斷來りし樣子殊に三十一代敏達天皇の御代には王辰爾といへる多能才智の者など來朝しつれば種々此文は棊にはあつからず唐に通せししる代ぬに考の事を傳へしも知るべからず崇神帝より聖武帝の天平中迄は星霜八百餘年なり棊の事國事にあづからず且史といふものもなき世なりしかば知れざるなるべし因て思ふに基は韓より傳へたるべし辨正法師が事七十本朝高僧傳二云和州大安寺沙彌辨正姓秦氏初以文學仕朝俄厭世故入大安寺剃髮出家勤探經願性滑稽善談論大寶中入唐玄宗皇帝在潜龍時屢召圍棊留學垂三十年請益頗多有思〓詩曰日邊瞻日本雲裏望雲端遠遊勞遠國長恨苦長安開元庚午夏駕舶歸國天平六年冬十月聖武皇帝勅僧正不記其所終矣正在俗時有子二人朝慶朝元慶者早死元者天平中入唐以文才見天子拜入唐判官懷風藻云辨正法師及朝慶在唐死元歸本朝仕至大夫按るに懷風藻は淡海三船が著述なり大友皇子か后孫と云へり辨正が事吉備公已前より棊ある明證なり日本王子唐にて圍棊の事唐宣宗大中七年四月日本王子來朝寶器音樂を送る帝百戯珍饌を設けて之を禮し玉ふ王子能く圍棊を爲す帝待詔顧師言に勅して王子と對手せしむ楸玉基局冷暖玉棊子を出すと云ふ本國の東三萬里に集眞島あり島上に凝露臺あり臺上に手譚池あり池中玉子を出す制度によらず自然に黑白分明なり冬は暖にして夏は冷なり故に之を冷暖玉と云ふ楸木是を琢て基局となす光潔にして鑑むべし師言王子と圍某三十三手打たるに勝負未だ決せず師言君命を辱しめん事を恐れて手に汗し思を凝して打ちけり此手を鎭神頭と云ふ是なり王子目を瞪し臂を縮めて己に伏して勝たず王子旅館に歸りて鴻臚に話て曰く師言は第爛柯堂棊話卷之一
爛柯堂基話卷之一一〇幾手ぞ鴻臚詐り答て曰く第三手なり師言實は國手と稱す王子曰く願は第一の者と手合せん曰く王子第三の者に勝得て第二の者に對し第二の者に勝得て而後に第一の者に對すべし今始めに第一の者に手合を望まるそれ得べけんやと云ふ王子局を掩て嘆じて曰く小國の第一大國の第三に及ばずと信なる哉と今好事の者顧師言が三十三下鎭神頭圖あり出杜陽雜編按るに鎭神頭と云ふ手玄々基經に圖あり然れ共誤あり王子是を知らずして負けしは遺憾の事なり〓朝の今に至りても此手を見出す者なきと見へて徐氏兼山堂奕譜を觀るに鎭神頭をいへり別に其圖を出して後學の爲に備ふべし冷暖玉唐山の書に出たる手譚池は豐後國佐賀關の白濱黑濱を云ふ今按るに手譚池は豐後に非ず肥前天草にありと云ふ然れ共南谿子が西遊記を見るに唐の玄宗皇帝の時日本より黑白自然の基石を送る其石冬は暖にして夏は冷なり故に冷暖玉と云ふ日本に手譚池あり其池中に集眞島あり其島上に凝霞臺あり此邊皆冷暖玉なり帝も奇代の珍寶なりとて甚だ之を愛し玉ふと云ふ此事八荒譯史等其外唐山の書籍に多く見えたり尋るに豐後に其所あり佐賀關より東南の方へ入る山路を經て朗なる所に出たり遙に向ふの山の麓にいと〓らかに靑み渡りて見ゆるは入海なり海に沿うて漁村あり磯馴れし小松の間に漁夫の家檐を竝べてあり行かふ人は豆の如く繫ける船は木葉に似たり暫く之に對すれば實に畫中にある心地して人間の世界に非ずそれより山を下れば黑の濱白の濱といふ所ありて山二ツ三ツ隔てたり白きは雪の如く黑きは漆の如く海邊皆此の如くにして異なる色を交へず海底迄も是の如くにて白の濱は潮迄も白き樣に見え黑の濱は黑み渡りて掘穿ちても沙土なし其〓らかなる事譬ふるに物なし唐山の書に手譚池と言國民大學省立法科學學學科學學學國と大、へるは此入海をいふなるべし集眞島といへるは出崎の山を云ふなるべし凝霞臺は出崎の山の頂に肥後候より異國賊船の遠見に置れたる番所あり渺漫たる大海に突出て高く聳えたる山の頂に建たるは實に凝霞臺といひつべし按るに南谿子西遊の日自ら其地をふみし事なれば相違なし肥前天草にありと云ふは非なるべし立宗三百二事文類聚入四十皇帝の時と云ふは誤なるか冷暖玉の事韻府群玉杜陽雜編太平廣記十ス書言故事大全港の月令廣義玉海四〓百等の書に見えたり然るに大中年中日本王子來朝待詔顧師言と圍基の事を載す諸八書皆大中中とのみ記す唯玉海に曰く唐宣宗大中七年四月とあり是にて考ふるに文德天皇仁壽三年圓仁證號に當る此年僧圓珍入唐の事見えたれば王子も此時なるべし慈覺大師威子天成子也全新兵制日本風土記曰園某子非造成者乃本國沿海之傍而有生成之石子儼如做成精緻名曰威子黑子出養那智三卷書此處へ追加すべし難知久山沿海之處白子出大隅山海傍皆隅州所屬之地也譚池音相近松下見林異稱日本傳因に云ふ予が同僚安井仙知が話に冷暖玉といふ由にて西國方の門弟より右の黑白の棊石を贈りし者ありけるが粗質にて下品の物なりと云へり果して其物なるや日本にて棊石の名產は紀州那智の濱に產する黑石を絕品とす近年は甲州雨端と云ふ所より黑石を出す然れ共那智より出づる者よりは大に劣れり白子に用ふる貝は常陸國より出る蛤といへども外によき貝を生ずる所ありと云へり其後弘化の末年基盤棊子製作する者に尋ねしに三河白と昔より云ひ來れ共近頃日向大隅より出る其絕品の由一ツ具にて三子出來候所端にて製候基子も價三分位に候と申き爛柯堂棊話卷之一幾氏皇が智は仁和入に其美味佳餚 自己帶來 美味
爛柯堂基話卷之一唐石の事唐石と稱して西土より渡り來るものあり陶器に類したる物なり其基子の形吾邦の饅頭といふ菓子の形に相似たり聞く西土にて圍基の時思ひ不定の間は上の圓き方を覆し置き愈思ひ定る後に又圓き方を上に爲し而る後に敵手又前の如くして互に思案するといへり妄說なるべし然らざれば極めて下手の所爲といふべし燒棊の法の事滇南皆作棊子而以永昌爲第一盖水土之別云燒棊之法以黑鉛七十斤紫石英三十斤硝石百二十斤爲一料可得基子三十副然費工本巳三十六七兩矣其以白如蛋靑黑如鴉靑爲上云々朝鮮國棊の事唐玄宗開元十六年遣 賛善太夫刑壔弔祭前王初帝謂瑞日新羅號爲君子國頗書記宜演經義使知大國儒〓之盛又以國人善基詔以參軍楊季鷹爲副、璹到國獻道德經按るに五十四代仁明天皇承和五年遣唐使あり唐文宗開成元年に當る藤原常嗣大使たり小野篁次使たり此時伴勝雄といふ者奕棊を善くするを以て唐使の員に備る棊師を以ての故なり玄宗皇帝楊季鷹を副とする意と同日の談なり朝鮮王以伊飡信忠爲中侍初王在潜邸甞與信忠圍碁於柏下謂不相負有如此柏未幾卽位錄功臣而遺信忠信忠作歌貼柏々忽枯王怪使審之得歌大驚召賜爵柏乃蘇高句麗王巨璉自將攻百濟殺其王餘慶初浮屠道琳應募僞得罪亡入百濟王好基琳曰臣頗入妙王召與棊果國手遂信眠之琳乃說王葺城郭修宮室蒸土築城作石椰葬父骨倉廩虛竭人民困窮琳宋元徽逃還〓之麗王伐百濟圍王都王死於兵三十年琉球圍棊の事張學禮錄士大夫恒好基僧院輙以奕供客有倦意則授以枕々如小文具中藏三四層人各枕其一徐葆光錄基局高尺許脚三四寸面厚七八寸極堅重黑子磨 煮石爲之白子磨螺蛤頂骨爲之人皆善某琉球謂之梧基下時不用四角黑白勢子局終數空眼多少不數實子也亦有象棋一志嗨按るに基下す時四角の星へ黑白の勢子を用ゐずとは互に如圖置いて打初るなり勢子とは星をいふなり右の通にては其形に基き容易なれば前々よりの上手の者共日本にては只今の通に打來ことゝ思はる異國にては打終り作る折石を取替る由承及べり然れ共確かには知らざるに局終數空眼多少不數實子也といふ文によりて知り得たり地は地にて數へ濱は濱にて互に合せ數へることと見えたり勝負のことを贏輸と云ひ餘る出すの義にて雙六と同意なり溢籌と云ふは我か中押のことなりと思ふべし棊の事古く見えたる事日本史に和氣仲世年十九擧文章生性至孝奉公忠勤爲人聰敏質朴不留意于雜藝唯好圍基後大學〓精不輟〓丸之子也延喜四年九月二十四日右少辨〓貫寬蓮法師を召して園棊を打せられけり寬蓮勝て賭物に出されたりける唐綾四反賜はりけり聖代にもか樣の勝負禁なかりけるにこそ棊勢法師の事同じ御時基勢法師御前にて圍棊を仕りて銀の笙を賜はりてけり生涯の面目に思ひて死しける時は棺に爛柯堂基話卷之一
爛柯堂基話卷之一四入るべきよしなんいひける中務卿と右大臣と圍棊の事承平七年正月十一日右大臣家の饗に中務卿宮在しましたりけるに中務卿と右大臣と圍基の事ありけり基手は錢にてぞありける昔は斯樣の晴の儀にも賭物にいてけるにこそ近代には違ひにてぞ侍りけれ朝廷にて盃酌後圍棊の事久安元年列見式日に行はれける宇治左府内大臣在しましける參り給ひて事に行はれけり朝廷にて盃酌の後圍棊ありけり權右中辨朝隆朝臣左少辨師經又少納言成隆能忠等二雙仕うまつりける昔は公卿ぞうちける辨少納言仕うまつる事は例確ならね共時代によりて定められけるとぞ公卿は念人にてぞ有ける此事絕て久敷なりてけるに珍しかりける事なり棊手錢の事花鳥餘情堵菜延長四年六月一日村上院御誕生中上略 絹綿布基手錢五十貫或三十貫云黑白棊子を取る古法の事黑白の基子を取るに古へは貴賤巧拙晝夜によりて差別ある事と見えたり園基式中国局云ふ石の葢をあけて黑きを敵の方へやりて白きを我は取るべし當家弓法大雙紙云ふ主人と基を參る事畫は白石を貴人へ參らせ夜は黑石を貴人へ參らすべし雙六も可准之四五十貫或三十貫云上首把黑下〓把白事江家次第標注云圍棊召公卿若辨少納言中能基之輩圍厨家奉裏錢天曆元年宣旨停錢其後募彌味其儀六位外二秤東記二人持某盤品牌二秤置公卿座東西相對史二人取菅圓座四枚敷棊秤南北上首二人居北圓座上首把黑下稿把白公卿以下移着棊所見之相分爲念人本因坊道悅と井上按るに念人未だ其義を詳かにせず細川丹後守殿にての棊此類か有趣故旁記しぬ因碩との譜なり歌合の後圍棊を興す晴の歌合には音樂ある事常の事也祐子內親王家歌合判詞云勝負褒貶之比第十七番鹿歌持疑反覆被定持了其後○中有驚耳徵音相挑之心中動外形歟滿座高聲乘興催感着本座後置棊手料紙演俗佳遊掩古被今遺算難盡餘興交侵賞歎腸欲罷不能仍當座上卿以三首題同成嘉詠召家經朝臣云々七種の事親長卿記云ふ文明五年七月七日今日有七種事一鞠一揚弓一樂一郢曲依人々故章無之仍改圍基畢一和漢五十一和歌謡韻首日題之一七盃飮若菜氏按るに祐子內親王家歌合の時尋常の御會には音樂あるべき處をさはなくて園某の興を催さるゝ由ありこは思ふに參るべき人々故障ありし歟又音樂抔する憚るべきあたりの公達の內に不幸せし人の在せし抔にて歟覺束なし圍棊口傳棊局寸法の事圍棊口傳□基聖式中取要載之棊局寸法長一尺四寸八分廣一尺四寸高六寸二分木厚三寸四分足高三寸二分爛柯堂棊話卷之一珍事と右り事念の合云人しるいに基は人方の3巻念へ一和漢五十一和歌謡韻首日題高六寸二分木厚三寸四分足高三寸二分
爛柯堂棊話卷之一此寸法大旨なり只見よき程に計るべし石各以二百爲一具錦囊抄云口棊局寸法高六寸長一尺四寸廣一尺三寸八分一目の分七分にして一年に表して三百六十目を盛り九曜を像り九聖目あり畫夜に擬して黑白各三百六十石あり按るに今用ふる所は白百八十黑百八十一なり然れ共二百を以て一具とする方可然歟却の多き某抔出る時は不足の事なり助言助指は固可戒事棊盤の足山梔子の形なるは助言を戒むる所以也とは豫てより聞きぬ按るに山梔子和名を口なしと呼故不言の意をとりてなるべし然れ共西土此意ありや否を知らず又彼方の局基圖を見るに巴字或は猫足の形勢に製す且舶來の基秤を見たる事あり厚一寸餘にて板なり是を臺に載せて用ゐると見えたり盤面朱漆黑線勢子は〓にて星には非ず基譜にも〓にて吾邦の製に異なり昔より失言助言を憤て刄傷に及びし例夥し松平康直吉村又右衞門奧村八郎右衞門小花和太兵衞龜井六郞が怒りに觸し時武藏坊辨慶が擧動は奇特の至可感事也權現樣御文の事身の樂しみの事人々好嫌ひ得手不得手有之事にて候兎角物の片寄らぬ樣に致させ申事に候譬へは四季の花色々樣々咲て何れも眺め有之候中にどくだみと申草花香もあしく何の役にも立不申草の樣に存候得共疥癬の藥に煎じ用ゐ候得ば妙藥に候其如く何藝も人の覺えた事は承り置何その時の入用の事ある物に候第一自身に不得手のことは人の致すも忌嫌ひ候者まゝ有之候それは大名の別して致さぬ事に候我等中年の頃迄某を一向に不存人のうつさへ無用の物氣詰りにて役にも立ぬ事と許り存人の好み候は虛け者の樣に存候所近年覺候へば雨降り徒然の慰にもなり先達而虛氣者と存候者を相手に致候是にて察候何事も詮のなき事は古へより致さぬ事吳れ〓〓も自分氣に入ぬものをあしきと存ぜぬ樣に致事專一の事に候只身の智惠の屆ぬ事と朝夕に存候事に候右之御文は權現樣より台德公の御臺樣へ被遣候御文なり權現樣駿河へ御隱居巳後は不斷棊をお樂しみ被遊候其事は記錄に間々所見あり本因坊には五ツにて御うち被成候とあり秀吉公信長公も同じく五ツにて被成候由傳へぬ豐臣太閤與菊亭右府圍棊の事小早川隆景は武勇といひ才智といひ容儀骨柄誠に傑出したる英雄なり近年の名將の中是に勝るはなし智惠には太閤も手を置きたまふ伏見の御城にて秀吉公と菊亭右府晴季公と棊を被遊家康公景勝抔御見物なり一手すきにて六ヶ敷なり秀吉公御手を案じ給へ共好手を思付給はずして被仰候は此分別は隆景にてもあるまじと仰あり家康公中々御意の通りと御挨拶あり筑紫陣治りて筑前五十二萬石を隆景に賜る其後隆景老て申は天正十年迄は御敵にて有しが毛利家人小早川何の御奉公もなきに大國を可給哉是は皆西國への響敵を可引付計策に被成ものなり誠に秀吉公御心より出てたる事に非ず然れば已來は六ヶ敷事ありと存被申上候は隆景子を持不申候間北政所御猶子木下金吾秀秋を申請跡目に仕度候と被申秀吉御心に叶ひ隆景子に被申付其上隱居を願ひ候得ば卽備後三原にて隱居領三十萬石被下則筑前は秀爛柯堂基話卷之一
爛柯堂基話卷之一秋へ被讓隆景分別者也と天下の沙汰なり一說に此時節太閣毛利家へ養子の心底あるを隆景其の機を察し本家の血統絕ん事を憂ひて此擧ありしと云ふ太閤も心中を被察深く感じ被居しが基に心を喪ふて不覺隆景が事を口外へ出せしものなりと評しぬ實にさもあらむ歟水汲論の事一時政宗物語に秀吉公伏見に御座の時家康公の御屋敷の傍に柳の水とて名水の井あり方々へ茶の水に汲候或時家康公の水汲と利家の足輕と水汲口論仕出し互に打合ひ夫より段々大きく成り兩方屋敷より小路へ大勢かけ出後には長柄の槍の穂先を合せ躊躇ひ一下知待合たる勢ひ中々夥し聞うちに家康公へ參るもあり利家へ參るもあり人馬いやが上に重なる程に天下の大事出來たりと犇きたり我等乘廻し見れば件のごとく小路に眞中を兩方槍の穗先を合せたる中を乘り分けて兩方勝負なし下郞共の私口論何十人互に押合死たるとて天下は是家康公利家兩の手を樂に取合魚と水の如くある上ツ方此事漏れ聞えても構ひ給ふ事ならず況や知り給ふ間敷にいはれぬ往來の騷ぎ沙汰の限りなり互に槍の穂先をのけ小路を廣く侍は門內に入候へ足輕下知なきに疎忽すべからずといひて上下をのり分て二三度槍とも兩方へ引取せ夫より家康公へ參り候得ば御門內にも人多く御殿に餘る程なり何處にましますと問ば先程より棊を被遊御座候と申御見廻申段申入ければ此方へとあり卽ち參り候へば石を御手に持玉ふて某盤の緣を叩き基盤に御顏のつく程に押付爰へより給へ此基見給へ思はぬ所を却を被立候得共此棊は身共勝なりとのたまふ近頃の御謀と乍思御側へより基を見て後御門前騒敷候に付罷出箇樣にのり分け下知仕御見廻申と申ければ先程左言ふものあれ共左程喧嘩にも成間敷事其許抔の聞給ふならば能程にこそめさるべし棊には打かゝる品は不存よき樣に計ひて戾りて是にて物參るべし料理能くさせ申さんと被仰候間心得存候大形此基は御勝なり今こそ候はんと申て表へ出利家の者はともあれ此方の衆は皆々內ね入るべし理非は不及糺と皆々入らせ利家の方へ風と御見舞候へ掛合の御料理給はるべきにてこそたに侍りぬちとして此方へ御見廻候へかし御料理給はり御物語申べし內々參り候て御誘可申候得共結句御料理催しケ間敷候へば待申候誰も外には無之と申遣し候へば內々夫より御見廻の段前かと承り候はヾ御同道可仕候所に御使の辱候掛合の御料理幸の事なり頓て御見舞可申との返事也夫より兩方の人引退き小路をはき駈集りたる衆も歸り鎭るべし今日の口論我等捌くべし其節の理非穿鑿に不及擊ば擊るゝ勝負なしされ共喧嘩兩成敗たるべし向後は水番を置き井の許へ入る道出る道をつけて高下に寄らず水は先次第汲み退くべしもし下知に叛く者あらば水番可爲曲事と定む然る所へ利家御見廻とて入給ふ同御座敷へ出候得者暫時某を打掛り料理見不申候とて御出迎ひ夫より種々樣々御物語結構盡したる御振舞なり今春太夫杯參り掛たる樣に被爲呼拍子五番ありて夜更歸り候時表迄御送被成明後日は利家へ參るべしと御約束なり雨降り一兩日延び利家宅へ御出終日夜更くるまで語り給ふとなり右萬姓家譜魔水系譜成たる時諸家より書上し伊達家の書也按るに高麗陣の節名護屋にての水汲論と同じ樣に兩度有之哉何れを是と定め難し名護屋にての水汲今按るに水汲論は全く名護屋に於ての事なり伏見に於て騒動論は六月末の暑氣の節なりの時も棊を被遊候なり德善院三將の御弓矢を評せし事あり白石紳書伊達成實記同じ右の事は某にあづからねとも神祖の御好被遊候事を記す也慶長十二年駿府へ御隱居被成候てよりは不斷圍棊は殊の外御樂み被遊候と見えたり
爛柯堂棊話卷之一內府秀吉公一時御話に藝能は人の位によりて入る事と入らぬ事あり織田常眞信雄は茶の湯歌道謠舞吹彈盤上の遊凡天下に雙びなく侍れ共武道に於ては信長公の切て捨て給ひし爪の先程もなく家康は華奢風流の諸藝は不調法なれ共武道の達人にて國民を治る事は吾朝は云ふに不及異國にも稀なるべし是も萬能一心萬藝一職に替へ難しと云ふなりと宣ひしとぞ本能寺にて圍棊の事天正十年信長公光秀が毛利征伐援兵に赴く武者押しをし給んとて江州安土より御登京都本能寺に御座あり六月朔日本因坊與利玄坊の圍棊を御覽あるに其の棊に三刧といふもの出來て止む拜見の衆奇異の事に思ひける子の刻過ぐる頃兩僧暇給りて半里許り行に金鼓の聲起るを聞き驚きしが是光秀が謀反にして本能寺を圍むにてぞありける後に圍棊の事を思ひ出て前兆といふことも有もの哉と皆云ひあへりとぞ其時の棊譜なりとて今も傳へたり此の基を思ひ見るに利玄が隅の石を取らるゝを見損じたる本因坊が布置手配りの樣子是亦前兆とも云べきか其日の基は別に基譜中に載ぬ此時神祖は泉州堺の妙國寺にまし〓〓けり茶屋四郞次郞本多忠勝に就て變を告ぐ神君は和尙と基を圍み給ひ忠勝次の間へ奉請委細を述ぶ神君靜に元の御座に返らせ玉ひ却を爭ひ給ひて基畢り御茶を被獻ければ茶碗を御覽被成名をお尋ゆゑ勝山と和尙申上ければ武將には目出度名なりと仰られ御所望急用事の由にて直に御發駕あり實に名將の器度自然暗合可奉感事也近三切の基稀には出る事ある者なり今證據にこゝに一局基譜を出す此遺譜は春碩と快山との圍基なり來塾弟山來椿平と高鹽有二が圍棊に出たり此譜も載べし仙洞御所にて平賀朝雅圍棊の事北條時政が後妻牧の方が生し娘の聟に武藏守朝雅といふ者ありけり武勇勝れたるにより京都守護として在京せり牧の方が奸謀にて朝雅に關東將軍の職を續せんと思はれたり其聞え隱れなかりければ二位尼大に驚き給ひ和田三浦結城天野長沼等を遣はして將軍實朝を相模守義時が第へ迎られける時政が竊に集めし勇士等悉く相州が方に集りて將軍を守護す時政思ふ旨ありけるにや俄に剃髮して執事を止めて籠居せらる諸臣相模守が館へ參りて商議あり朝雅其儘あらんには叛逆を起して京鎌倉靜かなるべからず早く誅戮せば太平の基ひなるべしとて使者を京都へ遣はし朝雅を可誅よし在京の御家人等に被仰付たり依之京都の武士佐々木廣綱同高重後藤基〓以下七百餘騎にて朝雅が六角洞院の家に押寄たり朝雅は折節仙洞に候し圍基の會に交て退出せず小舍人童走り來てかう〓〓と告たりける朝雅更に驚き遽ず色にも出さず元の座へ返り居て棊の果たりける目算をしめ石を收めて後關東より朝雅を誅罸の使を上せられ軍兵押寄候と申來て候早く身の暇を賜はるべしと仙洞へ奏聞し馬に打乘り六角の家に歸りければ郞徒出向ふて防ぎ戰ふたり朝雅面も振ず寄手の中を駈通り内に入て鎧を着し打て出で四角八面追散し從者皆打れしかば只一騎落て行く東軍等追掛れども物ともせず松阪の邊まで行けるを金持三郞廣親佐々木三郞兵衞盛綱等慕ひ行け共追留る人もなし山内六郞通基其時は未だ持壽丸といひしが聞ゆる强弓にて近く寄て朝雅が首の骨を篦深に討込て一矢なれ共痛手にて馬より眞倒まに落てけるを押へて首をぞ取にける按るに朝雅が讒死西土の王景文が事に相似たり劉宋の明帝王景文に死を賜ふ勅使到るの夜景文江州にありて客と基を圍み居たりけるが勅書を見終爛柯堂棊話卷之一
爛柯堂棊話卷之一りて基盤の傍に置き神色恬然として竟に基子を歛めて〓に納れ畢て徐に謂て曰く勅を奉て死を賜ふと客に示して賜ふ所の鴆酒を擧て客に向ひて此酒相侑むべからずと遂に仰飮して絕ゆ義時が宅にて棊會の事和田義盛北條義時が傍若無人の振舞を憎みて兵を起せし時三浦左衞門尉義村九郞左衞門尉胤義兄弟義盛と盟ひて北門を警固すべしといひ合せしが心變じて義時が許に行て義盛既に發兵の由を告る其日義時圍基の會を催せしが驚色なく靜かに目算を加へて後折島帽子を立帽子に改めて水干を着して御所へ參る按るに西土にも相似たる事あり晋謝安文雅過王道有德量方秦寇至朝野震動安夷然圍棊賭-整捷書至安方與客基覽畢置座側無喜色基罷客問之小兒輩遂破賊客去安入戶喜甚不覺屐齒折其矯情鎭物如此大久保忠隣配流の日圍棊の事慶長十九年正月二十四日佐渡守父子等忠隣に配流の奉書を下す兼てより板倉內膳正重昌父に久しく對面に及ばねば身の暇賜はりて上洛すと披露して忠隣に先達而都に上り三年十二月十四日に江戶を立つ父伊賀守勝重に仰を傳ふ勝重既に其期に及びしかば相模守が旅館に行向ふ忠隣折節基を圍み居たりしが勝重を座に請じ忠隣配流の御使たる由先に承りぬ流人の身と成りては斯る樂みあるべしとも覺へず待給へ後にとて靜かに事終て去ばとて謹で仰を承る左なきだに此間何となふ物騒がしかりしに京童も忠隣罪を蒙ると聞てすはや事の出來るぞと資財雜具爰かしこに持運び以ての外に騷動す忠隣此の由を聞て已が弓矢兵仗悉く束ねて伊賀守が許に送る家の子郎等皆暇を給ひて關東に下しければ洛中程なく鎭まりぬ大小華腸保日二編忠隣謫江名古屋市中国会議院矣謹云居世承々佐人民藝術(中华人民)賀器以出 ()家贈結聞於是洛陽穩也而後國際、(爛柯堂基話卷之二棊所本因坊道智御答の事有德院樣御代一時棊所の者へお尋有けるは棊の力同樣の者に候はヾ先手の者果して可勝事と思召候旨御尋あり道智申上候は上意の趣には御座候得共年齡同樣にて其日の氣分も同樣にて某の力も亦同樣に候はゞ先手の者勝を得可申段申上しとなり流石上手の御答なりと曲淵甲州物語りなり右の事耳袋と題せし曲淵甲斐守隨筆の中に見えたり金春太夫御答の事同御代金春六郞は上手の聞へ有しが一時御前へ罷出候節寶生大夫は上手なりと世上にも取沙汰致候由如何上手に候やと有御尋ければ他流の事にて何れとも口難く候と御答申上ければ夫は一通の事也御尋の上は心に思ひ候處有の儘に申上べくと御小姓衆より再應の御尋なりければ甚困りけるが左候はヾ申上べし此間さる御大名衆へ被召呼能を仕料理抔相濟楊枝を遣ひ候節寶生大夫儀何やら楊枝を仕廻しか又引出し一寸程離せ候て楊枝差へ楊枝を投入申候寶生大夫は藝は是にて御勘考可有之と御答申上げれば上にても兼て思召所と符合致候と御笑ひ被遊けると也此寶生大夫能はよく致けれ共常に正風體に無之仕打を好み氣象金春大夫が心に不合故にかく申上けると也因に曰ふ棊の事には預からぬ事なれ共此頃諸向ね種々の御尋ありし故思ひ出る儘に記しぬ本因坊道智將棊上手の事爛柯堂基話卷之二
爛柯堂基話卷之二本因坊道智は將棊も上手にて有しなり然るに大橋宗桂が子宗銀儀父上京の留守なりけるに每夜本因坊へ行いて將某をさしけるに對馬にて宗銀負る事每時なり口惜しき事に思ひて種々工夫すれ共駒組より詰ぎはに至りていつとなく圍ひ弱りて負る故餘り詮方なく思ひける折節父宗桂京都より歸る馬おり共いはず右の次第を語る宗桂儀不思議に思ひ先づ如何なる手立にて負けたるやと問ふ其時宗銀如此駒立にて此時の爰にて負候といふ宗桂笑ひてこゝに歩をつき彼處に銀を上可申所を工夫せざる故一手其方の負は見えたりと其家業を未熟せし故負間敷手にて甚叱りければ宗銀得心して其夜又本因坊へ行て將某をさす其半に至る時に宗銀彼の傳授の手を出す本因坊暫時考へてけるが手を打て父宗桂はや歸られしやと問ふ宗銀南無三寶と思ひさあらぬ體にて否々未だ歸らずと云ふ本因坊打笑ひ汝此手を知るべき事に非ず正敷宗桂傳へたるなり傳授の上は最早我相手にはあらず此將某某負なりとて突崩しけり實に其道によると雖も古法は不學しては知れ間敷事なり宗銀數番負たる相手なれ共古法の難有手立にて其夜始而本因坊に勝事は父の德なり偖又本因坊は我が職に非ずと雖も達人にて早く其手にて負たりといひて父歸りしやと尋ねし事奇妙なりと其道による者は深く感じける也本因坊道智大橋宗桂と職替の業上覽の事本因坊將某を得たる程宗桂も亦棊を得たりと云ふ沙汰あり一時基將基上覽の時御側衆宗桂が基本因坊の將基仕由言上す上意に職に非ずと雖も盤上の勝負似たる事也且は御慰の爲め職がへの業を上覽可有之との上意あり兩人畏つて先づ宗桂本因坊と始む如何したりけむ本因坊負たり其次に本因坊と宗桂將某をさす爰にて宗桂負たり其間三時間許り上手名人の手合なれば何れも晴ならずといふ事なし一兩日過て兩人を召して御側を以て被仰出は此度の職替本因坊は棊にまけ宗桂は將棊に負たる段御合點不被遊其道の棟梁として天下の御扶持を蒙り乍ら未熟の至也とて甚御腹立なり急度糺明致申譯あらば可申上と也其時本因坊謹で上意の趣乍恐御尤至極に存候然れ共御素人方の御存なき事に御座候宗桂儀私に負る將棊には無御座候得共負じと存候得ば家傳祕家の手を出し不申候ては不罷成其大切の手を出し候へば相手も上手にて候得ば其位を悟り申候左候ては將基所の御役立不申候間態と先負申候と申上る宗桂も亦同樣の御請也其宗匠に敵對程の藝にては大切の祕訣を悟るまじきものにも非ず尤の御請なりと諸人申けり御側衆兩人が申旨を上聞に達しける所何の御沙汰もなかりしとなり當時の本因坊道智は官賜名人某所なり大橋宗桂も名人將棊所也又一時被好望本因坊と因理と將某手合あり道智は六段因理は七段上手なれば香車落にて指ける所本因坊慥に勝ける其將棊如何にも〓〓道智能指ける由宗桂傍に在て熟覽深く感入譽し事ありと本因坊家に語り傳ふ予は師匠烈元被語しを聞し事あり因に記し置ぬ其日安井仙角も座にありて和尙は盤上の聖なりと感じけると也本因坊道智中將棊の聖所の事本因坊道智中將棊は聖所に至るといふ一時中將某を能する者本因坊を尋來る某は長崎より罷越候中將棊御達人と承御手合仕度と申入本因坊對面樣子尋候處其者申は九州四國は勿論五畿東海道此道に高名の人々へは必ず相尋手合仕候所更に敵手に足り候者無之由にて甚自慢の顏色也是迄指候將棊一二局作り見せ候樣申試に熟視するに本因坊輕親して手合可致申に付彼者對馬にて可仕候哉と申本因坊曰奔王を落し可然と云ふに彼者驚て奔王は飛角のきゝを兼たる駒なりいかんぞ左樣の敵手天下に可有之共不覺候と不得心の氣色なり然れ共其位の樣に見ゆるとありければ其者憤りながら手合に及びけるに本因坊負たり其日は一局にて止ぬ四五日過て來るべしと約して其日に至りければ又指しけるに又本因坊負爛柯堂基話卷之二
爛柯堂基話卷之二たり其者彌大言して歸りぬ又重ねて約束の日になりて指けるに今度は三番指して三局共に其者負たり是其者量を計りて工夫ありしと見えたり爰に於て長崎の者舌を吐て大に驚感じ入他國遊歷に不及直に歸國せしとなり仙角が盤上の聖なりと云し果然たり徂徠先生答問書學問仕樣の事御尋被仰下候此段中々書中にては被申盡不申事に候遠境投熱之儀從來何方へも一切御斷申入候儀此故に候其許へは多年の御深志承及候故任御望今更御答に致當惑候先は遠境より傳授は難成事是事理の當然に候依之孔門之諸弟子も何も從學被致候事に候其仔細は其門に入候得ば門風と申事有之樣々の事にて其風儀に染り候所より思致過半候事に候從古師友と申事有之師〓よりは朋友の切磋にて知見を博め學問進候事に候當時大名高位の稽古埓明不申候事よき師をば引付學被申候得共位貴く候故朋友無之依之何藝も不致成就事是明證に候朋友に交り門風に染候事是第一の事に候然れば遠境にて傳授は難成事顯然に候然れ共御深志に御座候間其師友の代に成申事可申進候責ては是にて成共可被償御志を候其師友の代に成申候書籍にて候損友を遠け益友を近け候事取友の道に候然れば損の參る書籍は目に絕て御覽有之間敷候益に成候書籍に御心を被染べく候是より外に別に師友の代に成候事無之候下略按るに右徂徠翁が云ふ如く高貴の人にも不限基は勝負ある藝なれば家來は君の心に合はんとおもひ已勝ことを不好或は又硬直の者にても外よりいひ〓て負させるもの也富貴の人には出入相手になる者共多は阿り謂ふもの也然れば富貴の人物を學ぶには心得あるべき事也某經の善書は某經連珠同拔萃選粹名世棊鑑國技觀光等也然れ共觀光は幼學の者通曉し難し舊きは連珠新は名世某鑑よき也牧野殿圍棊の事下總國關宿の侍從牧野備後守成貞圍基を被好禀性棊道聰慧なり本因坊四世道策か弟子となり被學元祿中段位五段に被進古候伯にて如斯は唯一人也自幼少專修行無懈勉强すと雖も高段に至る者甚稀なり本因坊隱居道悅桑原道節等との基譜を見るに有趣先にて手合被致候と見えたり常憲公未た館林藩邸に被爲在候時分より御側を被勤大統を被爲嗣候ては御老中に被列日夜繁務看想すべし然るに暫時の閑暇餘力を以て專門の基者も容易に難及高段の地位に至る感ずるに餘りあり然れ共自ら疑惑を生じ本因坊一統は門人の事故貴人を敬ひ機嫌を憚て諸弟子へも申含め謂ふとには非ずと雖も斟酌するにもあらんか然る時は眞の切磋に成らす思はれければ一日本因坊を被招右の心底を被申斟酌有之ては稽古にもならず又慰にもならぬなれば已來心を得られよとなり本因坊答へて曰く聊か左樣之儀無御座候若し御疑有之候はゞ他門の者と御手合御試可被成旨申述依之安井算知と圍棊被成候算知は名人の儀故二つ置御試の處牧野殿二目勝也思ふに是にて疑心氷解せられしや又算知儀他門たりと雖も相手する心底知るべからず近來峰山候京極殿圍棊御好被成井上因碩門弟に被成同職は勿論高弟共數多被招不斷某會御催也四家の弟子高段の弟子二人都て六人罷出御自親御圍み被成家臣にも相應に出來候者數輩有之交々の手合賑々敷棊會也其席にて同職共との被望度々見物有之所一日に手員五十手或は三十手の日もありて漸數日を經て畢る御自親の圍棊は一日にて畢り或は半日にて相濟依之而被思召は相手する者輕視して心を用ふるに不足して手を下す速なる歟體屈欠伸を斟酌して然るか同職共との手合とは差別あり自分も五段なれば容易には無之筈也若くは倦んことを憚て相勤て速に圍むならば了簡相違なり何程遲滯にても
爛柯堂基話卷之二此方は不厭事也一同其旨相心得候樣家臣を以て被申聞是も牧野殿が疑ひと同意也退て其後同僚共談話に及ぶ所本因坊元丈申出けるは京極殿の眞意を推尋るに賣色消魂快美せざるを當客不悅と同樣也と云て大に笑ひけり實に有趣譬喩也牧野殿の某譜不傳は可惜事故其譜二三局を載て貽ぬ因に云ふ上手白を取るは今の通例也然るに牧野殿と算知が基譜を見るに白にて二ツ被置始祖本因坊算砂と利玄が基譜を見るに白にて先を置きしも見えたり又慶安の頃算知哲齋の基譜に白德番と記しある是は先々先手合にて上手の先番と見へたり寛文の頃より今の如くなりしと被思先々先の基は今にても古に復し度もの也西村左馬之介角力の事蒲生飛彈守氏郷か家臣に西村左馬介といふ者あり世に聞へある强力也氏〓未た勢州の主たりし時如何してか氏郷か勘氣を得たりしが年を經て召返され目見過て翌日左馬之介か心を引見むとや思はれけん座鋪相撲を取むとありしに我勝なは主人機嫌損すへし又負なば左馬之介輕薄とや思はれむ如何せんと思ひけるは否々士の習ひ見限られなは一生の恥辱なるへし機嫌を損する迄と思ひ力を出して組合しか終に氏〓を組伏たり氏〓無念にや思はれけん今一番と力足を踏れしに近習の者共思ひしは憐れ今度は西村負よかし又勝なば必定手討にせられんと手に汗を握り片唾を呑て居たりける西村思ひしは此度負なは彌輕薄になるべしと心得よし手討にならむは必定なるべし如何せむ是迄と思ひ切別して力を出して組合しかば又此度も勝にけり其時氏郷笑を含み汝はみきは增りの功の者成と感ぜられ其翌日知行加增被申付けるとぞ實に左馬之介は器量ある名士なりと皆人感じあへりとかや按るに右之一條諸事に涉し事なり予が棊に於ても是に准する事あり既に如是席に會せしに左馬之介が心に同き事兩三度も有りけり相感ずるまゝに記しぬ棊を好む人の言に陰陽ある事凡古今共に棊は好む人の中に儘有之癖にて韓非が說難の意味にて陽に負を不嫌と謂て陰に深く是を嫌ふ棊師誰には詔て負誰は不憚潔し誰は〓誠も深切成共可惜負て人の歡を取る執心にて稽古する者の心にては甚だ迷惑の事あり抔いふ人に多く陰陽あり大御所樣淺野彈正と圍棊の事權現樣は淺野長政と相某にて日々某を被遊一時御負の御樣子にて御機嫌惡敷彈正が末子釆女長則本因坊を呼で顏を出させる家康公御覽被付本因坊を召我等基を見よ何共思案に不及此石躍たらば如何あらん夫より外には手なしと被仰本因坊承り上意の如く御躍被成候より外は無御座候と申上則御躍被成候得ば其棊御勝になる御機嫌なり長政大にせき御次へ立去り本因坊に向ひ脇差に手を掛けいな所へ其方が差出我等に棊を負させたり重て差出助言申候はヾ可討捨と大に怒りける又或時釆女方へ御越可被成と上意故辱用意專ら也父彈正に申候は家康公御成被遊候は御身と基を被遊候半との思召也彈正此度は某を御負候て御機嫌能樣賴入と申候得は彈正大に怒り御所樣なれば迚も勝棊に負べきかとてもなき事申候左樣の事あらば御成の時其方宅へ出合申間敷と立腹也又或時庭前に毛氈敷き基を被遊日が當るとて傘に少し穴をあけ石を御置被成可然所へ穴より日足をうつす即ち御合點にて石を日の光のさす處へ御置候故御勝被成彈正不興千萬也武邊雜談按るに淺野父子が應答の樣子も看想すべく且又權現樣の大聖にて人情に御達し被成何も御存にて助言も御用ひ被成無我に御樂み被成候是を手本にして不疑陰陰の邪念を脫して此道を翫ふならば樂も深く稽古も其中にあるべし爛柯堂基話卷之二
爛柯堂基話卷之二大御所樣圍棊を御廢被遊事慶長十六年秀賴卿へ御對面の爲め御上京二條御城に御逗留中淺野彈正少弼卒去の旨大御所樣御聞に達し舊來の御馴染故殊の外御愁傷被成しと也甲州へ隱居後も時々召して圍某の御相手に被成候處長政歿して後は棊を不被遊となり抑此長政は太閤の御在世の時より家康公の御人品尋常ならぬ御明君と見請奉り人知らず忠義を盡し太閤御前を執成其上關東七ケ國御約束之儀旣に御變替可有處此長政が內通によりて井伊直政誠忠を盡し相濟候儀太閣御他界後天下の大小名東西に分れ大變出來すべき事と覺悟し子息左京の大夫へ申含め公へ屬し奉り其身は甲州へ病氣と稱し引籠り關ケ原前後にも大阪方第一と思ひたる淺野家關東方となる事旁大御所樣思召合され長政へ隱居料として十萬石別段に被下慶長六年佐竹義宣常州退轉の後長政に笠間を隱居料として被下御懇情他に異り依之此度遺言として願ひ被置趣は總領紀伊守幸長紀伊一ケ國被下置外に願奉る儀憚多く候得共隱居分の御恩祿を次男釆女聟兩人へ被下候得ば聟と云ふは松平伯耆守羽柴美濃守也生前死後の御厚志たるべしとの遺言なり誠に亂世には上に立所の目利する事第一也秀賴御滅亡後に於ては太閤御緣族の淺野家なれば第一に家亡ぶべき所に元祖長政の目利よきゆへ子孫長く繁昌たること其家の興廢天命といふ計には非ずとかや慶長十六年四月淺野彈正少弼卒前將軍最與少弼親善以常陸眞壁五萬石爲其湯沐邑而時召見與圍棊及其歿不復奕也日本外史林門入の事權現樣御扶持被下置候御鐵砲方の御用承り候細工人胝惣八郞と申者是は一時御伽衆の中より御鐵砲張候惣八が忰に門三郞と申者有之未幼少には候得共棊を打申事を好み家業の細工を嫌申候に付親共不興仕候而叱候得共親共の目を忍び寺々方抔參り候て兎角基を打申候必竟用に立不申候とて親共迷惑がり申と申上候得ば御聽被成都て人には天性と生れ付たる得手と不得手がなくて不成なり其忰は如何程に棊を打ぞ呼寄て打せ見よと被仰候に付て濱松の御城へ被召坊主御役人抔打寄て相手被成打試候得共此忰に勝候者一人も無之由御聽に達し重て御上京之節上方へ可被召連間坊主仲間へ入れ小僧に致置候得との御意に付髪を剃落し名をば如何附可申哉と被伺候所則名は門入に仕候得との事にて本多佐渡守被申上候は京都ヘ被召連候はヾ苗字も無之候ては成申間敷候所へ赤がり門入にても相濟申間敷と申上候得ば御聽被遊佐渡守が申通り赤がりにても如何なれば苗字は何と成共其方共付てとらせ候樣との仰に付野にも山にも澤山有之ものに御座候得ば森と成共林となり共可仕候哉と申上候へば今度上方にて上手に成候はヾ森も可然先林にして可置との仰に付夫れより林門入と申候となり其後御上京の節被召連本因坊が弟子に被仰付候所段々基を打あげ上手並の手直りと罷成候に付御相手に被成明暮某を御打被遊時々は御用の御障にも相成程に有之候由一時佐渡守御話の序にて被申上候は世間にて基將基仕數寄と申も多くは呆氣者共の致事かと存候其仔細は基將棊すくと申は上手になり度とての事にて候天下一の上手に成り候得ば迚何程出精候ても無益の事に候と申候得ば御聽被遊其方が申事なれ共奧平九八郞抔も基を好みて打と仰の下佐渡守重て申上候は九八郞抔は其身の武邊をも極め其上いつも閑にて居る人故てんかふかき候ても其通の事に候未武邊をも不極者や心に大なる望抔を含居る者抔の棊將棊と申も馬鹿なる事にて候と申上候得ば兎角の仰もなく御笑御座被遊其後は某を御打被遊候所へ何ぞ御用にて罷出候得ば棊盤の側御離れ御聽被遊候と也按るに佐渡守が辭氣古諫臣の風あり君亦從ふこと如流といふべし正信が諫の樣子にては神祖と雖も爛柯堂基話卷之二門ていただきりと記御館 は碑愛被傳へ
爛柯堂基話卷之二御耽被遊候と見わたり因に云ふ林門入が父は本國伊賀にて松屋彌左衞門と云て鐵砲鍛冶也今江戶鐵砲町にて鐵砲御用相勤御扶持百五十俵被下置松屋鐵五郞といふ是林門入が弟の家なり天正十八年關東御入國の時より御供し江戶住也松屋が由〓書に委ければ爰に略す赤がり惣八が子と云ふは誤なり然れ共昔より由緒有之にや近來迄同居なり今松屋鐵五郞が姉は惣八が女なり胝惚八は鐵砲町の草分名主なり惣八が苗字異なる事と思ひしに是は或時泉州境にて鐵砲鍛冶家業日々に增て繁昌仕候と申上候へばひゞに增し候はあかゞりなり今より紙と呼候へと權現樣の御滑稽に御附被成候苗字なりと云ふ松屋彌左衞門は居宅の庭中に松樹の大なるありけるに因て其所の者松屋々々と呼しとなり兩人共に堺にありて年來鐵砲を鑄たる故に惣八が子と誤りしにや此頃泉南湊邊に庵を結び利玄坊と云ふ日蓮宗の僧あり天禀の圍基の良手にて其名天下に高し門入は同所近邊に住しける故利玄に隨ひ棊を學びし也門入童名は門三郎といひしなり本因坊が弟子には非ず此事は林家の口碑にも傳へ同職共の家にても慥に知る所也新刀の名鍛冶虎徹と名を齊敷せし繁慶は胝惣八なりと云ふ說あれ共是は時代相違せりと云ひし人あり猶可尋繁慶は寬文延寶時代の者なりと云ふ慶長十七年棊將基の衆へ御扶持被下候人數の中に門入が名無之是御譜代にて其以前より被召出し明證也但三十石〓に十人扶持被下置候所十人扶持今は無之申傳へありと雖慥なる事は不知なり門入が弟の家今鐵砲鍛冶松屋鐵五郎が書上候由〓書にて十人扶持有之也堺名產金紗元和年中唐人當津に來りて松屋錢屋と云ふ兩人に金紗の織樣を相傳してより今に織出せり近代に及んでも昔の織物世上に散在して松屋裁錢屋裁とて持弄す也按るに松屋彌左衞門も此親族ならん歟源氏物語圍棊の事源氏物語論論ふ筆をとる道と基打こと社あやしうたましゐの程見ゆるといへり按るに紫式部深く感ずる事ありて譽し言なり豈筆と某を善する者の譽れに非ずや爰に是を兼たる人あり夏井是なり五十四代仁明天皇承和五年遣唐使あり唐の文宗の開成元年に當る藤原常嗣大使たり小野篁次使たり篁途中より病ありて歸り文を作りて常嗣を議りしを以て篁隱岐國に流されたり此時僧圓仁も求法のため同船す伴勝雄といふ者奕基を善するを以て唐使の員に備る棊師を以ての故なり夏井棊を勝雄に學たり年十餘歲一二年の間に勝雄に越たり紀夏井は左京の人美濃守善岑が第三の子なり眉目よくして身丈六尺三寸性溫和にして幼稚より才思あり承和の初年隸書を能するを以て詔して文堂に召して參議篁に就て筆を用ふる法を受く篁嘆じて曰紀三郞は眞に書の聖と云べしと也文德天皇卽位ありて後詔ありて徵して見給ふに夏井が衣服粗にして見苦し左右の人皆是を笑ふ帝曰く是疲駿なり汝等の知る所に非ずと遂に召して寵あり帝は夏井が忠誠〓貧なるを珍重し給ひ頻に昇進す文德天皇崩し給ふの後讃岐守になり政化大に行れ吏民安らかに喜ぶ任滿て歸らんとするに百姓相卒ひて禁闕に詣りて國に止めむ事を乞ふ依之更に又二年を留む年貢充滿して大藏を造る事總て四十字國を去に及て吏民別を送る者甚多し贈物も又多し夏井一ツも受る事なく都に歸りて後米穀玩好の物を以て其家に賜るに夏井唯紙筆を留て其餘を返す貞觀七年肥後守に任ず其母石川氏聞て哭す其故を問ふ答て曰ふ吾聞く肥後の風俗國宰至て〓ければ其身以不全我子其終へさらんか異母の子豐城あり夏井其放誕なるを以て屢折檻を加ふ豐城苦んで遂に身爛柯堂基話卷之二
爛柯堂基話卷之二を伴善雄に寄す應天門燒て善雄罪せらる豐城は從者たり夏井は豊城が兄たり故に轉相緣座せられて遠流に處せらる夏井使に隨ひて境を出づ肥後の民路を遮て悲哭する事母を失るが如し夏井私に嘆て曰ふ凡法律に所謂首從の罪必差降あり予は是從か兄亦緣座せられ今善雄と同く遠流に配せらる何ぞ其別なきや數年にして母死す夏井至孝にして喪に居る事禮に過たり兼而雜藝を善し射を能す文德天皇宮人と戯に一釣を隱して百中の中にあり竊に夏井をして占しむ卽著を執て卦を布て曰ふ小女の春衣着て白花を挿頭にしたる者左の手中にありと帝悟得て大に喜び給ふ醫藥の道を習へり土佐に配せらる後自ら山澤に行き藥を合煉して以て民に施す民多く其驗を得たり甞て一人ありて中風を煩ひ髪を被き狂走す夏井一七の散藥を與ふ服せしむるに此人立に癒ゆ皆此類也一小說に云ふ夏井畫は百濟河成に學ぶ幽靈を畫くに妙を得たり夏井畫精術なるを以て珍重せられし身の今斯る禍に逢て不測も西海に赴きいつを歸るべき期と定なき生別の嘆に妻の楓も物狂しき迄悲泣し遣らじとするか袖さへも留る物は涙のみにして夏井兄弟は使に隨ひて境に出住馴し都を後に數里の波濤を經て土佐の國にも着ければ怪しの草舍に膝を容世の盛衰を感嘆す弟豐城は膽太しく山に獵し海に漁す朝夕の備へにせんとす夏井は弟が匹夫の勇を諫めて文學を勸れば豊城は夏井が柔弱にして膽氣なきを議り兄弟同意ならざれば庵を隔て住けり夏井は山澤に行き藥草を採て合煉し民の病苦を救ひ或は豪家の爲に屏障に書畫を筆して其精術を驚す是に於て吏民朝夕庭前に給仕す謝物を贈ると雖も更に受ず蓬首散帶にして〓貧を守り山海の勢都に目馴ぬを心の友として日を送る中にも山鳥の尾隔て都に殘る妻の心如何ならんと春の雉子につけ秋山の鹿につけても忘られず包み兼ては言出るを豐城も時々言慰めければ死別より生別にこそあんなれと竊に思ひ止ず是をのみ一の憂に荷ひ暮すを其甲斐なき事に思ひけるが一夕豐城は例の漁の歸兄が庵に立より雙眼に涙を浮て夏井を見る夏井弟の面色常ならぬを訝斯る强勇何の愁哉あると驚て仔細を問へば豐城は鹽垂衣に涙を拂ひ今室津の渡り近く鯛の網に罷りて歸さ己が都にて親しき友の主命にて此國に罷りけるに逢侍りて何くれ都の消息を聞侍るに尊兄の日頃悲しく思ひ給ふ阿嫂は此三月許り前に墓なくなり給ひしと慥に承り候と泣々語りければ夏井聞に胸潰れ目も暮て聲も得立ず悲泣けり豐城いふ樣斯る御嘆を見る事の苦しさよ斯申ましとは思ひつれど尊兄は日頃物學し給ふ故會者定離の理も辨へ給ひてんとさのみやはと思ひたるも今は悔侍といへば夏井も涙うち拂ひ生ての別を天外に尋るとも蜀山の雲遙に隔死ての悲を地下に求むとも覇陵の水轉咽かひなき理を莊周が缶打鳴せしに習ふべけれ共我が身の上に落掛りては更に思ひ消されて悲しく侍ると立上り假の庵にも假の世の御佛設けの壇に向ひ御燈を捧げ香を捻頓て靈薄に楓か名を寫し供養する體に豐城も少し心安靜柴の戶引立て歸りぬ夫より夏井は夙に起ては關伽を汲花を折て追福供養の外他事なかりけり一夜燈下に法華經を書寫し寂寥として居たりける屏風の陰より女の半面せるあり怪と見れば妻の楓なり夏井筆を投じなからや妻の楓にておわさずか我を忘れざる亡靈の海山越て爰迄慕ひ給ふか正敷物をもかはし給へと云に屏風を押開き立出る姿は白妙の袖に溜らぬ春の雪消なは惜しきと早くも取縋り湧出る淚を拂ひ死生を共にせんと契約しに今更薄情に泉下の人と隔つべきや共に亡魂となればなれ地獄の苦患も荷ひてむと互に歎きに枕席をすゝめ終夜睦み語り又の夜を契りて北窓より香煙の風に吹れて橫ぎる如く忽然と消滅すれば夏井は柴の戶をさし籠て人にも逢ず唯亡人の來ると思へば暮遲く塒へ歸る鳥影も夫かとそのみ思はれて顏色も憔悴し氣力勞れたるさまに豐城を始め近隣の者も亡妻の爲に傷悼に堪ざるは理ながら斯ては病共成らんと樣々に諫れども更に浮たる氣色も見へざりけり豐
爛柯堂基話卷之二城夜網をして歸るさ何心なく夏井が軒を窺ふに燕談する聲あり怪と壁に立添て聞は夏井が聲して吾妻今宵は遲かりし抔いへば大に怪み事の樣や有むと立歸り夜明て夏井が庵に至り夕は何處よりか稀人の來り給ふぞと强く問ふに夏井も初の程は隱せしが都の外迄も辛苦を共にする兄弟の中なれば漏しつとも苦しかるまじと云々の由を語るに豐城大驚是全變化の所爲なりと言んとせしが今妖怪のために昏迷せられし兄の那さは思はん一つには變化をも試みむとさらぬ體にもてなし阿嫂の君を戀て墓なくなり給ひつればさいふ事も侍らむと念佛打誦んして歸ぬ楓は其夜早くも豐城殿に語り給ひたり妾が參るも今宵限りなりと恨たる風情に外に言葉もなくてこそ人に漏つるこそ惡からめ兄弟の中なれば他人には漏まじ穴勝恨み給ふなといへど兎かう打詫寄も添さるに夏井涙を拂ひ我もいつ迄斯て有へき旦暮地に入ても添ひ參らせん須臾の形見に面影の忘れ難き寫し繪にと楓が裾を引とめて涙の露の硯水早くも幻の姿を筆の工みに留めたり豐城は宵より窺ひすまし兼て用意の網をざぶんと打かければ一聲喚んで飛上りて逃れむとするを豐城引しめ動かさず夏井は驚きこはいかにするぞと周章す近隣の人々戶を放ちて亂入し弟ぬし仕果給ひしやと灯を點じ進み寄りて見れば楓の姿忽に毛脫したる老狸と成て網に覆れ眼光銳く齧て人を切す豐城力を極て網をしめ拳を以て搏殺す人々豐城が膂力の勝れたるを驚く夏井は茫然として夢の覺たる如く羞を含て豐城に向ひ我亡妻の愁傷に神心昏迷し老狸の爲に犯されたるは愚魯の至也と舊日の憂思ひを開き豐城が平生無情漢なるを疏んぜしかと斯る振舞には益の侍る事感稱しければ豊城は頭を搔て尊兄許し給へ此怪事を引出しは我鄙心より起れり尊兄都に殘し給ふ阿嫂の事を思ひ餘り給ふを見るに忍ず果なくなり給ひぬと聞給はゞ却て思ひ明らめ給ふことあるらむと日外空言で申つるに日頃に增りての愁歎にさらばとて謂難くてやみぬる中尊兄哀慕の餘り神心勞したるを附込て老狸怪をなし侍りと始て罪を〓げて謝せば夏井先都の妻が無事を歡び愛妻に執着過たるを愧ければ豐城も安堵し近隣の人にも夏井が寫したる幽靈の姿を目のあたり見しに違ずと稱讃し頓て携て人より人に傳へて其墨痕鮮麗にして奇巧なるを愛ける其頃に土佐守なる人の手に入任果て都へ上り帝の叡覽に備へければ夏井の巧なるを再感給ひ豐城が勇猛の手段を稱し給ひ程なく都へ返されければ萬〓の欝忽に開け天山の歡び限りなく妻の楓も良人の芳志の忝きに夏井に向ひ實に亡魂となりても慕ひ參らすべきに愚にも生て都に侍りつるこそ彼の狸にも劣りていふ甲斐なく侍る抔且泣且笑ひ雙鯉淵に浮める心地して睦み舊年に增りて仕へける其頃都鄙の貴賤夏井が幽靈の畫とて賞翫限なく珍財を投じて求ん事を爭ふ畫事數千枚にして是が爲に紙の價ひ貴かりしとなん劉仲甫の事德齋齋扶乩其仙降壇不作詩自署名曰劉仲甫衆不知爲誰有一國手在側曰是南宋國手著有棊訣四編者也因請對奕乱判曰奕則我必負固請乃許果負半子衆曰大仙謙挹欲獎成後進之名耶乩判曰不然後人事々不及古唯推歩與奕基則皆勝古或因古人所及更復精思故已到竿頭又能進步是爲推步言非爲奕棊言也盖風氣日薄人情日巧其傾軋攻取之術兩機激薄變幻萬端弔詭出奇不留餘地古人不肯爲事往々肯爲古人不敢冐之險往々敢冐古人不忍出之策往々忍出故一切心計皆出古人上奕基亦心計之一故宋元國手至明巳差一路今之國手一路半矣或至兩路三路是則踢寔踏虛之辨也然古之國手極敗不過一路半今問奕竟世常勝法乎又判曰無常勝法而有 常不負法不奕則常負矣僕猥以風慧得得作鬼仙也不外間身名心都盡逢場作〓勝敗何關若當局者角爭得失尙愼旃哉四座有經歷者多喟然大息姑忘聽之
爛柯堂棊話卷之二右抄錄は御書物奉行鈴木岩次郞殿と古賀小太郞殿と余が瀧の川寓居ヘ被訪候日被相贈候鈴木氏が厚意也葢曆至元郭守敬得其七分西法入中國得其九僅有火星半度之差譬猶園某者實高古人四子豈非今有勝古處閻若據古文疏證右伺庵古賀先生抄錄被贈所也甲州家臣春日源五郞之事甲州武田家の名臣春日源五郞天文廿一年彈正と改名弘治二郞信玄信州伊奈所に攻城の時高坂入道が名跡に被成此時高坂彈正忠昌と名乘る永祿九年正月十三日武田信玄を大僧正に被成下比叡山明王院の阿閣梨綸旨を捧て甲府に下着ありしかば信玄恐悅不斜是三條左中將執し申主上正親町天皇より被成下所なり此春は御歡のため惠林寺長禪寺を初め寺々へ信玄を請待をぞしたりける一向宗長遠寺といふも見へたり謙信が信玄へ和平の使長遠寺を以て被申送晴信入道出家し給ひしは天文廿年二月十二日也德榮軒と號し道號は機山法名は信玄とぞ付給ひける此時法體被仰付面々には原美濃守入道は〓巖山本勘助は道鬼齋小畑山城守は日意長坂左衞門尉は釣閑齋眞田彈正は一德齋とぞ號しける按るに永祿九年よりは十五六年前に改名なり武田大膳大夫晴信兼信濃守春日源五郞圍棊の譜ヘ書入べし松平康直失言を怒て打果したる事甲州の名臣依田右衞門尉信蕃が子修理太夫康國が弟松平右衞門太夫康直家を續康國上州長根にて陣歿嗣子なければなり神祖關東へ移らせられし時上州藤岡の地三萬石領す康國が妻に添ふ一時御家人の中にて康直と某を圍みて負し人の我は圍棊には負るとも兄の妻を我妻にはすまじきものをと云しかばこらへず打果して逃去りぬ其後結城殿賓客の樣にして召し置れぬ祿七千石を賜ふと云ふ結城殿とは神祖の御子三河守秀康公の事也小花和太兵衞が事安藤右京進家來小花和玄蕃が子太兵衞次男故奉公稼の爲め江戶に出て母方の從弟屋代越中守忠照にかかりて在けるが圍基を好み一日廣間の帳附石川惣右衞門といふ者と小書院にて某を始め太兵衞續て三番勝四番目を打掛る處へ忠照が用人松井淺右衞門といふ者通り掛りて立ながら惣右衞門に助言す太兵衞仰向て淺右衞門其許は主の口眞似も仕る者か士の作法を取失ひたるや助言申さば下に居て申されよといふ太兵衞口が過ぎ候控へられよといひながら行かんとせしを飛退りて淺右衞門を拔打にする橫腹より右の高股まで切て落し餘る太刀某盤の角三寸計り切て落す惣右衞門驚き脇差を拔かんとする太兵衞莞爾と笑ひて惣右衞門迷ふまじ我は此家の一族なれば逃走る心底なしと云ふ此音に詰合の輩七八人馳付けて太兵衞を取捲く太兵衞少しも騒がず脇差を投出し此事を越中守殿へ被申上よと云ふ越中守殿次の間まで被出しが太兵衞手柄々々とて手を引で居間へ同道也家人石川右近森武太夫を呼て相談ありて室賀甚四郞忠政は忠照弟なれば呼寄此事を語りて太兵衞は何卒助けたき事也と相談ありけれ共喧嘩兩成敗の掟なれば太兵衞切腹に極りて越中守が菩提所貝塚靑松寺へ遣す今度の手抦眼前なれ共上を憚る上は是非なし切腹被致よと涙を流して申さるゝ太兵衞手を仕へ御深切難有實不慮の事にて御厄介かけ候段無面目候と禮を述て乘物へ移る石川右近森武太夫室賀喜助結綿與左衞門神取十郞左衞門等組の
爛柯堂基話卷之二者引連て五六十人乘物を圍みて靑松寺へ行く溜池の邊を通る時太兵衞森武太夫を呼て云ひけるは慮外ながら小便の心地あり許し給へと申ければ武太夫物馴し者にて池の端へ乘物を昇寄て一方を明て池の方て向て旁口を警固する太兵衞乘物の戶を開て小便する體に持なし池へ飛込たり警固の者共大に驚き上を下へと騷ぐ太兵衞普通に超し水練の達者何の苦もなく水底に入て小袖を脫捨是所彼所潜り游警固の內より結綿與左衞門乘戾して越中守に告る即小卅を出して足輕〓中間を二三百人出して熊手突棒鍵の柄を入て捜すと雖も知れず太兵衞水底に有て此音を聞舟底に取付て舟漕廻すに隨ひて游き廻る程に中々當らず日も暮ければ松明挑燈萬燈の如くにて水底曇なき程なり太兵衞思ひけるは所詮此儘息疲れては引出されむ事疑なし如何にもして遁れんと隙を窺ひ内藤帶刀忠興の上屋敷水門より圍の內へ潜り込夫より上らむとせしを內藤の家來嶺彌兵衞六振粂右衞門鍵引下け馳出て水門を破りて潜入は狼藉也何者にもせよ突殺せといふ番の侍數多馳出て手々に鍵引下げ走出鍵襖を造りて既に危く見へし時太兵衞眼をいらゝげ武士の家を賴みかけ込事數多し大名の屋なれば命を助け貰度て潛り入候也但し水門を欠込者は助けぬといふ法や有ると血眼に成て申ける帶刀の家老上田主計は智惠ある者にて早く上り給へ帶刀に申て下知を請べし若き衆は早計給ふなと制し鍵を引よと申により鍵を引取太兵衞這上りて主計に禮を述安藤平六と云者此時出て小袖を出し粥溫酒を侑め忠興大廣間に出てゝ門を固め追手來らば謀て挨拶すべしと下知して扨太兵衞呼出して對面し武邊なる事を譽給ひて知行二百石〓刀脇差を賜ひ江戶住居氣遣ひ也某居城奥州岩城へ越へし今夜は更たれば溫に被休よ必氣遣ひ有べからずよき人を求し事滿足也と奥へ入給ふ去程に越中守家來は水門の內心元なし迚卒爾なる事仕難し迚內藤が門前へ來て狼藉者御圍ひと見請候御出し被下候得といふ帶及物頭出て下知の如く無事の挨拶して出さず越中守家來共詮方なく空敷屋敷へ歸りける夜明て越中守方へ帶刀より使者を遣し貴殿御扶持被置し小花和太兵衞儀彼者が一命拙者へ給り候へ餘り健氣なる士にて候間召置候と申越る越中守助け度思ふ心底故御心に被任候へと返答なり然る上はとて岩城に遣はされ岩城に在し時も兩度まで仕初の手柄あり帶刀祕藏の家來なりしが溜池手柄世間に流布して卽甲府宰相殿へ五百石にて御貰七十四歲にして病死其子太兵衞は御旗本也按るに太兵衞駕籠に乘る時武太夫太兵衞が耳に口をつけ何やらん呼たり太兵衞嬉氣に點頭たりといふ又小便を乞し時は太兵衞武太夫を呼て此事を賴し也此時駕籠の戶を明たるは武太夫也此度逃去れといふ事を武太夫心付たる也情ある侍成去は社太兵衞事死後迄も武太夫が厚志を忘すして子供等に噂を言聞せたると也爛柯堂某話卷之二
爛柯堂基話卷之三爛柯堂基話卷之三圍棊傳來考日本の西土に通せしは三十四代推古天皇の御時厩戶皇子攝政の日犬上御田鋤を隋へ遣し彼の土の式を尋ねて冠色を定め位階を定め給ふ此時も又群藝を學ぶにいとまあらじ三十五代舒明天皇二年始置遣唐使實當唐太宗之貞觀四年吾邦聘唐之始也三十七代孝德天皇白雉四年遣唐使あり唐の高宗の永徽四年にあたる此時道昭定惠二人も同船して入唐求法の爲なり定惠は天武帝の白鳳七年始めて法相宗を傳へて歸朝す在唐凡二十五年也思ふに此の兩僧など佛學の外傳へ來りしも知るべからず定惠は多武峰の開山なり元明帝の和銅七年六月二十五日寂す大織冠鎌足の長子なり三十八代齊明天皇二年西藩百濟の亂を援ひ給ふに新羅唐に內附して援兵を乞ひしにより高宗より援兵來り戰に及ぶ故に此間入唐の者絕えたり同五年勅使入唐坂合石布津守等を遣はし初て唐と和平す是より又入唐の者ありしなり依て思ふに棊は已前より傳りてありても某道未だ開けざりしと見えたり吉備公が歸朝ありてよりは某譜口訣等もありて上達せしものならんかし吉備公が在唐は立宗の時なれば高手の者ありし時也玄々棊經の序に曰く張說李泌善く其の理を論ず他の以て及ばざる所なりと云へり日本の圍基吉備公已前よりある事は辨正が一事にても明らかなり權中納言匡房の事匡房はいとけなき時より人にすぐれて才智あり四歲のとき始て書を讀ならひ八歲にして史記漢書をよみ通し十一歲にて詩を作られたり其事は父の成衡朝臣に具せられて土御門大臣の御もとに參りて此春より詩を作りさふらふよし成衡申されけるに大臣疑しく思召て雪裏春松貞と云ふ題を出して詩をつくらしめ給ふに抄物切韻なども持合せられざるに筆をそめてやかて書て奉られければ大臣まことに優れたる事なりとて此詩を持て參內し給ひ帝の御覽に備へられければ叡感ありて學問料を賜はれりこれより名譽日々にまして盛に人に賞せられぬ其頃關白賴通公宇治の平等院を建給はんとて權大納言源師房卿とゝもに宇治にゆきて造營の地形の事なと示し合せらるゝに四足の大門を北向に建る例古しへに有ける事にやと師房に問給ひけるに師房其例を覺悟せられざりければ賴通公へ申さるゝは其例いまた覺悟致し候はず大江の成衡が子江の冠者いまだ無官にてさふらへと下官が車の後に乘せて參り侍り彼のものはよく故事をおぼへ居候まゝ試みに召出して問侍らむとて匡房にこの由を申されければ匡房謹て答へられけるは天竺には那蘭寺戒賢論師の住處震旦には西明寺圓淵法師の道場日本には六波羅蜜寺空也上人の建立いづれも寺門北に向ひ候と申されければ賴通公大に其强記を歎賞せられたり匡房其より文章得業生に補せられ對策及第せられけるみづから才を賴みて世を憤り迹を山林に晦まさむと思はれけるを知りて權中納言經信これを諭して曰く汝命世の才を懷きながら何ぞ自ら其身を愛せずして俄に隱遁せむとする哉とて大に諫められしかば此異見を用ひて隱遁せんとするのこゝろをやめられけりそれより後三條帝白河帝堀河帝三朝につかへて官位昇進せられけるに承曆年中高麗國より日本の名醫丹波雅忠を請ける時匡房をして高麗の返牒をかゝしめられけるに其文の中に雙魚難達鳳池之浪扁鵲豈入鷄林之雲と云ふ句あり此句を人々聞傳へて愛てのゝしりけるが其後彼の國の商人太宰府へ來りしが此句を紳に爛柯堂基話卷之三
爛柯堂基話卷之三書てありけるとぞ扨此大江家は先祖音人卿已來代々博識の人多かりしが此卿の世に至りて朝庭の故實とすべき書を編集せられけり卽今の世に傅はれる江家次第二十卷これなりこの江家の書籍は古しへより度々の火災に燒ざりしが匡房卿二條高倉にくらをたてゝ書籍ともを入置れけるを或人都のうちは火災を恐るべきよし申ければ匡房卿の曰く日本國失ずば此書籍も失べからず朝家失べき期來らはこの書籍もうすべし火災恐るゝに足らずと申されけるが後に仁平の頃彼の書籍みな燒失せけるに果して其後は朝家もなきが如くにおとろへ給へり匡房卿後三條院の東宮にておはせし時より學問の御師範たりしが帝御位に卽せ給ひて後震筆の宣旨をかゝせ給ひて伊勢太神宮へ奉らむとせさせ給ふ時匡房御前にさむらはれけるに讀聞せ給ふ其文に朕位に卽て後一事として僻事せずと云ふ事をかゝせたまへりければ匡房此御詞如何侍るべからむと申されけるに殊の外逆鱗ありて汝何事を思ひてかゝることを申やと仰られければ匡房申上られけるは先に藤原の實政を以左中辨とし給へりこれ常陸辨隆方を超させ給ふに侍らずや其事はいかに侍らむと申上られければ帝御心に思し合させ給ふことやありけん御氣色すこしなほりて其宣命は讀も果給はず持て內に入らせ給ひけり此帝未だ東宮におはしましける時春日詣のありけるに和泉の木津にて隆方と實政と船遊びをしていさかひをし出しけり隆方實政をのゝしる詞にさまでもなき待幸の同しさまかなと云てけり實政は多年の東宮の學士にて老者なりければかくあざけりたるなり實政泣々此事を訴へ申ければ是を易からず思し召しつめて御位に卽せ給ひて後隆方か官を貶されたるなり然るに此度匡房の申されたる事をふかく思し召し知られけるにや其時までは出居の御座にて供御はまゐりけるに御前に誰かあると問せ給ふに隆方さふらふよし人の申ける時かれにむかひえ物はくはしと仰せられて內にてぞ供御はまゐりけるこれ卽ち匡房の諫めを納給ふ御心より隆方に對はせたまふ事を恥思し召たるなり又或人內々匡房にむかひて口口の院の御學問はいか程におはしまし候やと問ければ佐國ほどにやおはしまさむとこたへられければ國王のさほどまで學問せさせ給へりしことを其人感じ思ひけるとぞ匡房和歌よりは詩文を以て世に名高かりし少き時秋日閑居賦を作られたるに藤原の明衡これを賞して曰其鋒森然たり定めて敵する者少なからんといへり又或時禁中をたゝずみありかれけるを若き學者の事なれば不風流の人ならむと女房達あなつりて匡房を御簾のきわに呼よせてこれを彈給へとて和栞を押出したりければ匡房とりあへずあふ坂の關のこなたもまだ見ねばあづまのことも知られざりけりと讀れたれば女房達案に違ひて返しもえせてやみにけり此歌のこゝろは東國へ行には先逢阪の關を越てゆく事なれば逢さかの關のこなたもまだ見ぬ身なれば東の事は知らずさふらふといふ事にて和葉をあづまことゝ云ふによりて事と琴とをかねて讀まれたるなり匡房老後天永二年の頃病つきて剃髮せられ七十一歲にして薨せられたり此人世に江帥と稱したり其子隆兼は式部少輔維順は式部大輔たりし蓋聞江家次第者大江匡房卿二條關白道家公命而所撰也恒例臨時之政事祭奠法會之儀式無不悉存誠朝廷之龜鑑有司之准則者也明朝象棊の事明仁宗在東宮時甞二內侍象基因命曹子棨應制詩云兩軍相對立雙營座運神機決死生十里封疆馳鐵馬一川波浪動金兵虞姬歌舞悲〓下漢將旌旗逼楚城興盡計窮征戰罷松陰花影滿殘秤帝和云
爛柯堂棊話卷之三二國爭强各用兵擺成隊伍定輸贏馬行曲路當先道將守深宮戒遠征乘險出車收敗卒隔河飛砲下重城等閑識得軍情事一着功成見太平按るに此詩を見れば本朝今の將棊に相似たり明の胡元端が云象棊不可用於中國これを思へば又明帝の唱和も疑なきにあらず將棊の事享保中將某の傳來御尋の節將棊の起りは孟甞君初めて其形を作ると云ふ事據を知らず武王伐紂時作るといふは卽不然亦戰國兵家者流也蓋時猶重車戰也兵卒過界有進無退政是沈船破釜之意其機會變幻雖視圍某稍約而攻守救應之妙亦有千變萬化不可言者金鵬變勢略備矣而尙有未盡者蓋著書之人原非神手也五雜爼天竺國王圍棊の事寶物集に云昔天竺の國王行業貴き羅漢を歸依せんが爲に迎へ給へり其程圍基を打て待ち給ふ羅漢參りたる由を奏しけるに國王圍棊に切るべき處の有けるに興に入りて切れと宣ひけるを羅漢を切れと宣ふなんめりと思ひて則ち羅漢の頸を切てけり其後國王の棊を打果て給ひて羅漢を此方へと請じ給ひけるに早く切れと仰せられつれば切り侍りぬと申しける時に心憂く淺間しく思召けれども力及ばず是は佛在世の事なりければ佛の處に參り詣て此有樣を申し給ひければ佛國王に告げて曰く昔國王は蛙にて田の中におはしき又彼の羅漢は田を作る農夫なりき田を作る程に鍬といふ物を以て心ならず蛙の頭を打切つてけり農夫悲み悔れども甲斐なくて止みぬ今其業をつぐのはんが爲に心ならず殺さるゝなり物の報といふ事は心を起して殺せば心を起して殺さる也心ならず殺せば心ならず殺さるゝなり無始生死より諸佛の出生の利益にもれて六趣に輪廻して悲しむ事は不殺生戒を持たざりしが故なりとぞ宣ひける又持て破らざるは後世までは申に及ばず現世に見する利益侍べり梁武帝圍棊之事朝野僉載云梁有〓頭師者極精進梁武帝甚敬信之後勅使喚 磕頭師帝亦與ノ人棊欲殺一段應聲曰殺却使違出而斬之帝某罷曰喚師使答曰向者陛下令人殺却臣已殺訖帝嘆曰師臨死之時有何言使云貧道無罪前却爲沙彌「時以鍬刻地誤斷一曲蟮帝時爲蟻〓此報也帝流淚悔恨亦無及焉又見西陽雜爼續集曇摩芯提戯を慕て群臣に答へざる事賢愚因緣經出家功德尸利茲提緣品云過去世時此闇浮提有一國王名曇摩苾提此言法增好喜布施持戒聞法有慈悲心性不暴惡不傷物命王相具足政法治國滿二十年事間閑暇共人博戯時有一人犯法殺人諸臣白王外有一人犯於王法云何治罪王時慕戯脫答之言隨國法治卽案限律殺人應死尋殺此人王博戯巳問諸臣言向者罪人今何所在我欲斷決臣白王言隨國法治今已殺竟王聞是語問紀躄地天竺之棊之事昔天竺の波羅奈國に戒定慧の三學を兼備し一人の沙門ありける一朝の師として四海の倚賴たりしかば天下の歸依渴仰せること恰も大聖世尊の出世成道の如くなりあの時その國の大王法會を行ふべき事ありて說戒の導師に此沙門を請せられける沙門則ち勅命に隨ひて鳳關に參られける帝折節基を被遊ける砌へ傳奏參りて沙門參內の由を奏し申しけるを遊ばしける某に御心を入れられて是を聞し食されず棊の手につきて切れと被仰けるを傳奏聞誤りてこの沙門をきれとの勅定ぞと心得て禁門の外に出して卽爛柯堂基話卷之三
爛柯堂基話卷之三ち沙門の首を刎てけり帝棊を被遊果て後沙門を御前へ召されければ典獄の官勅定に隨て首を刎ねたりと申す帝大に逆鱗ありて行死定後三奏すといへり然るを一言の下に誤を行ふて朕が不德を重ぬ罪大逆に同じとて卽ち傳奏を召して三族の罪に被行けりさて此沙門罪なくして死刑に逢ひ給ひぬること只事にあらず前生の宿業にておはすらんと思し召されければ帝其故を阿羅漢に問給ふ阿羅漢七日が間定に入りて宿命通を得て過現を見給ふに沙門の前生は耕作を業とする田夫なり帝の前生は水に住む蛙にてぞありける此の田夫鋤を取て春の田をかへしける時誤て鋤の先にて蛙の頸をぞきりたりける此因果にて田夫は沙門と生れ蛙は波羅奈國の大王と生れ誤りて又死罪を被行けるこそ哀れなり然ればこの上人も何なる修因感果の理にてかゝる不慮の罪に沈み給ひぬらん不思議なりし事共なり太平記引事按に梁の武帝右の事に相似たる事あり達摩見天竺僧行事昔し天竺に一寺あり住僧最多し達磨和尙此寺に入りて僧共の行を見給ふに或房には念佛し經を讀み樣々に行ひ或房を見給ふに八九十なる老僧の圍棊を打ち佛もなく經も見えず棊を圍むの外他事なし達磨件の房を出て他の僧に問ふに答へて曰この老僧二人は若き時より圍棊の外する事なし凡て佛法の名をだに聞かず仍て寺僧にくみいやしみて交會することなしむなしく僧供を受外道の如く思へりといへり和尙是を聞いて定めて樣あらんと思ひて此老僧が傍に居て圍棊を打つ有樣を見れば一人は立てり一人は居れりと見るに忽然として失ぬあやしみ思ふ程に立る僧は歸り居たりと見る程に又居たる僧失ぬ見れば又來ぬ左ればこそと思ひて圍棊の外他事なしと承るに證果の上人にこそおはしけれ其故を問ひ奉らんと宣ふに老僧答て曰く年來此事より外他事なし但黑勝ときは我煩惱勝ぬとかなしみ白勝つときは菩薩勝ちぬと悅打に隨ひて煩惱の黑を失ひ菩薩の白の勝たんことを思ふ此の功德によりて證果の身となりはべるなりといふにぞ和尙房を出て他僧に語り玉ひければ年來にくみいやしみつる人々後に拜して皆貴みけるとなん宇治拾遺物語に見えたり辨慶傍觀圍棊助指の事源廷尉門下之壯士相集圍某駿河龜井相當武藏坊辨慶伊勢三郞在側駿河劣于龜井二道武藏坊指而助之龜井怒伸臂打武藏之頰武藏直打三郞三郞驚曰狂僧何爲辨慶曰輪次打也輙付一笑而散葆光祕錄獨嘯庵所著右天保癸卯六月常州笠間藩儒醫棚谷善庵と會せし時基話に及びしかば此事は聞得たり因に云ふ仙臺の林子平が著述を讀しに辨慶を譽しことあり源義經京師を沒落して奧州へ下る道中主從共に欝氣して力も脫落したるに辨慶のみ時々狂言を發し人を笑らわせ又若輩なる口論を仕かけ人氣を引たてなどして危き道中を難なく奧州迄到着したり是ぞ辨慶か智略大事の所を能く會得したる故にかゝる狂言狂行をもなしたるなり一偏の勇僧とのみ思ふこと勿れ貴ぶべしといへり按るに辨慶圍棊の日不意に龜井に打れ驚ずして輪次打にて笑を取りし樣子實に智勇有餘と云ふべし贈汪叟序朱彝尊湯武周孔古之大聖人也而稽康非之薄之韓愈之文至矣而劉胸訓之天下以爲賢一〓之人曰否聽者從而疑之矣同調以爲工異乎巳者以爲拙味者從而信之矣是則毀譽之至無定者末世之文行也因思藝事之微有一定而不可清者宜莫如奕方其勝敗決乎前某一品某也二三品較然論定有非毀譽之所能移既極其詣則其人雖吾所惡但可詬及其人終不得話其藝之未至孔子曰不有博奕者爲之猶賢乎已故夫奕雖小數亦有可學焉然藝之至
爛柯堂棊話卷之三者恒僅專心于是未暇究文章道德之業則士君子雖與游未甞不厭薄之噫使其言行際一如學奕者之心而審其得失焉不可因其人而益重其藝乎歙人汪叟善奕者第一品觀其貌醉然可親察其言藹然可聽所爲小詩詳雅而中律出其寫眞畫卷當世鉅公才士莫不嘉奬若出一口將不特以藝重者歟予甞疾世之僞爲君子而勤說以爲文者思力反之子古毀者之中予雖好予者不能奪也輙悼平生知巳未若叟所遇之多復自笑不能學進乎奕徒以無定之毀譽聽習俗愛憎之口而已題其卷遂因所感以告之汪漢年與盛大有か手基大極へ先を打し譜へ序文を書入へし算哲と道策との圍棊大極の理を以中央へ先を置し棊同く載へし大〓名変の事畫舫多以奕爲游者李嘯村賀園詩序有云香生玉局花邊圍國手基是語可想見湖上圍基風景矣楊州國工祇韓學元一人而已若寓公則樊鱗書程懶予周東公盛大有汪漢年黃龍士范西平何闇公施本庵姜吉士諸人後先輝映范施同時稱國手范著桃花泉奕譜施著奕理指歸皆傳子世今之言基者動曰施范近頃江戶の人太田雄藏肥前長崎へ遊びし日〓人に邂逅しけるが雄藏を以て范西屏に比し賞譽して贈る文あり〓にて范西屏は古今の良手と見えたり〓朝基者程蘭如之事畫舫錄程蘭如奕某不及施范而象基稱國手右は水藩彰弘館總裁川口長孺文通の次抄出して贈らるゝ所なり〓人の某譜は予が著す所の某經精妙に近譜の內より選みて其の樂むべき嘉尙すべきものを載せたり其中施襄夏范西屏は巨擘なり近譜は安永の頃江戶へ只一部渡來の基經なり其頃本因坊察元井上因碩其外諸先達〓某の品格を評論せり師匠烈元より聞きしことあり因碩は凡三四段位の基なりと云けるよし察元は夫よりは上なるべしといふ烈元は徐星友を日本風にて器用なりと云はれしを覺えたり范西屏か著したる桃花泉奕譜を見るに隅の定石又石立等の作なり一人の力工夫にて編輯せしは可賞事也近來名人丈和と〓棊の談に及びしに阿波の米藏位の基なるべしと云き是は彼が某風の異るを見て輕視するなり如斯云へば彼を擧げて己を貶すなりと怒る基者もあるべし後世自然長崎邊にて〓人と圍棊有之まじきにもあらず輕侮して敗を取らざる爲に戒の用心を遺すのみ日本の名人と優劣を論ずれば同日の談と思ふべからず神君知彼知己たまふ事神君小牧山へ御陣を据られし時秀吉が方には隍を掘り柵を造るを御覽じて信雄に宣ひしは先年長篠にて我故右府と共に斯る手術して武田勝賴を待受しに勝賴血氣の少年故陣を亂して切懸りしに此方は待設し事なれば思ふ圖に引付鐵砲にて打すくめ不勞して勝を得たり今秀吉其故智を用ゐ柵など造るとは見へたりかゝれば貴殿と我等を勝賴と同じ類の對手と思ふと見えたりとて笑はせ給ひしとぞ落穂集今按るに兵書に所謂知彼知已則勝也勝賴圍棊の譬をいふ事武田勝賴長篠の軍敗北の後高阪彈正極諫しけるに勝賴仰けるは足下の申すこと理の至極なれども家康一人の覺悟にて勝賴にむかひて合戰は思ひもよるまじ又信長も一身にては我等と戰はんとは思ふべからず信長は德川を後楯にし德川家は信長を楯に築て働事なり去年長篠にて後れを取り大身小身各法勝院殿御祕藏の良將等大半討死の事我過少からずと雖も信長今日本一の大身德川家又海道一の良將兩旗を以て若輩なる勝賴と國を離れて戰ふに柵を三重にまでふりて切處を構へ城郭の如くせんとは我思ひ爛柯堂基話卷之三
爛柯堂基話卷之三寄らざりき是を曉らざるは愚昧の故なり敵柵をふりて勝ちたるは棊に寢濱をして勝ちたるに同じ然れば敵の心になりて己が上手を以て勝たるとは思ふべからず信長家康兩人に果報は劣るとも武勇は劣るべからずと仰せければ高阪あきれて默然たり武田三代記右の一話に付予圍棊の作物あり別記す人は好む所を以て譬を取る事人各好む所あれば一夕の茶話酒談にも多くは其好む所を以て譬をとるもの也權現樣秀吉公を始め奉り勝賴其外眞田昌幸等棊の譬喩を引し事まゝ見へたり其二三をいはむ天正二年の頃武田四郞勝賴は遠州表名譽の弓矢近國の賞美尠からす七月甲州へ歸陣の後一門譜代等を集められて祝儀の饗應ありて盃を給ふ砌內藤修理高阪彈正に申けるは今度の祝儀目出度々々々とばかり申て家法信玄公の御逝去後は悉く廢れたる成へし一命を捨て侫人共を切殺し腹切るべしと怒しところ高阪遠慮ある士なれば能こそ申され候某にまかせ給ひ一通りの儀の御座敷を穢し候ては忠臣の缺る所あるべし某先可申候間其節の侫人共が返答によつて決すべし迚ひかへ居し處へ高阪方へ御盃被下候に付勝賴の盃をいたゞきながら長閑にむかひて彈正申けるは長閑聞給へ今日頂戴の御盃は新羅三郞殿二十八代の武田滅亡御定めの盃是なり適れ不思議の御酒を被下もの哉と高聲に申せしかば長閑勝賴の方を一目見て物云はず彈正申分なりとの挨拶彈正重ねて長閑不審をうち召れよといへ共御前にが〓〓敷體なりしかば流石の長閑も何とも申出し難くひかへ居る內藤修理申けるは此方より申聞候當家三年の內傾運の御祝儀よと申に付彈正中を取ていやとよ御遺言にも十年の內大切なりと仰置れ候うへは十年迄高阪存命ならば甲信兩國は敵の物とはさせまじと言に付よふ〓〓此節長閑申候は所存候はヾ殘らず被申上へし法性院殿御祕藏の各申さるゝ事を屋形樣にもいかで御背き可有哉と申にぞ高阪申は當春中美濃國數ケ所御手に入今高天神の御手際家老共は達而控へ御異見申上候得共出頭衆と御相談の上御譽れを被成候事是御滅亡の御首途にて候其譯は向後家老中申事御取上なく出頭人の申事萬事御利運と可思召候間二三年の中信長家康と兩旗を以相手に被成無理なる一戰被成候事必定と奉存候然る時は家老ども初め前代より武功を積し輩悉く討死仕り信長家康の方へ領國は切とられ勢いつきて滅亡とは慥に見定め候但し一言成共此一條答めに出る者あらむ哉夫こそ御家を亡す逆敵なれば家老共望次第相手たるべしと面色替りて申ければ長閑大炊も赤面に及びけり勝賴にも奇怪に思召顏色なりといへども武田家四天王といふ馬場內藤高阪山縣が事なれば腹立の色も顯さずつと立て奧へ入給ふ四臣も退出せしとなり其夜高阪了簡に片皮破りの勝賴今日の我々が無禮空知らず持成し給ふは少しは御賴みありと存じて夜詰に罷出る勝賴は高阪夜詰珍らしと被申に高阪御側近くよりて御前の人をのぞかれ候へ御當家長久の御相談ありと申上ゆゑ各御次へ立し跡にて勝賴へ諫言なすは當春切とられし東美濃不殘是に罷在信長の男御坊へ被遣御緣近き御一門方の聟と可被成候然ば信長元來御緣中の事に候得ば滿足たらむ夏中攻取候高天神城洞郡を相添へ先人質として久々甲府住居の松平彌三郞へ被下信玄御代御緣邊の沙汰計のお兼御寮を勢州長島へ可被遣との心底は御上洛の砌長島は甲州兵馬の着岸其心得有之候得共今は無益に相成候間此姫を源三郞殿へ遣はされ家康公に御入魂被仰入候はヾ德川家も早速御合體疑ひなく候織田德川の兩家を御緣組れ候はヾ押かゝりて北條殿をおし潰し關七州御手に入候へし然らば信長は上方筋を切取度存念候間却而加勢を可被差越候北條家より御逝去の砌使者の往來殊には郡內さかひへ手さしをなしたるもよふ旁以ふりあしく候得は押かけて潰し候へとの事然る時は只今の御分國に七州を合せ候得ば十二ヶ國也下野の爛柯堂基話卷之三
爛柯堂某話卷之三國の儀は宇都宮先年より無二に被申入候得ば野州の儀外に相背き申衆有之間敷候得ば十三ヶ國丸の御知行となり申候追々御分國增可申候中々信長抔の分にて當家を狙ひ可申存寄も有之間敷事に御座候と誠心を顯して機密の儀を申にそ勝賴も大〓御得心と相見へ如何にも申處尤の事也某も能々意味を工夫して決すべしとて御夜詰引候て高阪は退出せり長閑御側にありて此由を聞善惡の儀を不申罷在しが其夜は御伽可仕とて御寢間に罷在終夜御物語を致し此機密の計策をほくしける社殘念なり長閑申上るは今宵高阪申上候儀は御承引可有之思召に候哉と乍恐御家之浮沈存亡此一擧に可有之奉存候御大切之場に候ゆゑ今晩御宿直を仕り尊意を伺ひ可申奉存候御當代に至りて御心をゆるされば御心腹を殘さす御語り可被成候某と大炊計に御座候と申上候勝賴聞給ひ長閑汝眞實の段大炊は勝賴を大切に存る心底も能く知れり今日彈正申處利害二筋の中早速決し難し殊更甲信兩國の士民の諺にも信玄より高阪は棊ならば二石も强しと評する我幼年より武藝のみに精力を勵して學文疎く齊家治國平天下の理に於ては我ながら暗し此處是非辨へ難し先は高阪が申處面白く聞ゆる也北條氏政が了簡實は永々武田の片腕とも賴み難し然らばとて信長家康を無二の味方ともたのみがたし然りといへども北條を押たをして七州を領する時は關東を限り深く弓矢の元手丈夫也信長家康申合すとも容易は當家を傾くべき强みも見えず天下の望さへ急にせざれば只今の領國北條跡を合せて十二三ヶ國を手に付て出羽奧州迄幕下に屬すはたしかなるものなれば其內信長は上方筋を手に附るとも關東まで手に入らむとは存もよらず十に九つ迄は此了簡にしたかふべしと思ふなりとの仰を聞て涙をはら〓〓と流し是非もなき儀に御座候惜ひ哉君の御武勇は謙信の操にも違ひ申さす奉存候と敵國の評判なれば慥成事に御座候殊に當年美濃に於て家老共異見之通りに候はヾ十八ヶ所の城々は御手に入申間敷候其後高天神も家老共御了簡に被成候はヾ小笠原與八郞も降參仕間敷候美濃遠州兩度の御武勇東海道に響申候是と申も七ヶ國の北條殿を御旗下と被成候得ばこそ後に御氣遣なく御働被成候へばこそ弓矢の御威光も追日てかゞやき申候處謂れなく北條を押倒し候はヾ關東武邊の國々士も民も義を立て男氣の七ヶ國何として當家の手に付可申哉畢竟高阪山形馬場內藤を始め大名と成もはや身を大事に仕り長生を望み候心底と相見へ申候君には御年も盛りに日の出の弓矢を俄にくもらせ奉る家老共の心底こそ無念千萬なれ惜しき事には高天神責落し給ひし勢ひにて德川を追ひ倒し東海道をおして御上洛あらむには泰山を以て玉子をおすが如く信長も御馬前に降を乞ひ申さむ左なくば平家の崩れの如く西海へ逃走るか二つの外あるべからず候ものを是非もなき儀とすゝり上て泣口說ければ元より武勇に於て尖なる事死をかへり見ず軍好の勝賴ゆへうなづき給ひ如何にも長閑が申こどく關東七ヶ國の者ども勝賴を不義とそんじて屬せざる時は却而禍をまねくに似たり差當りたる敵をてきとし有來る味方を味方とせむは其失なかるべしとの給ひ高阪が金言の異見を無に成し事偏に武田滅亡の時節とは云ながら殘念なりし事共なり武田勝賴が此兩話を見るにも圍棊を好みし有樣なり甲信兩國の諺にも高阪彈正は信玄より棊ならば二石も强かるべしとあり近來永祿九年春武田晴信と春日源五郞が某譜出たりと聞く先思ふに人物を看想して實にも高阪事二石も優るへし且又君臣の間勝負ある藝故會釋も可有と推察して試に其譜を熟覽するに信玄が方憂れり此譜によりて考を得たる事あり西土の圍基は互に勢子の座へ初に二ツづゝ置て打初る日本にては始より先を置ゆゑに手談洪大にして變化無窮趣も又深し此譜には勢子へは置ね共末追々に勢子へ置ぬ依て思ふに既に此已前より打來り天正の頃本因坊利玄坊抔の上手共今の樣に打始しと見えたり建長五年日蓮上人と吉祥丸が基譜を見るに此頃は未だ西土風なり日本の棊海外に秀しは此意味もこれあるなるべし爛柯堂基話卷之三
爛柯堂基話卷之四爛柯堂基話卷之四安倍仲麿の話往古には遣唐使とて皇國より才智ある官人を撰み唐土へ物學びに遣はさるゝ事ありし夫には大使副使判官主典とて四人を四艘の船に乘て遣さるゝ例なれば此遣唐使の事をよつの船とは歌には詠り元正天皇の靈龜二年六月多治比の眞人縣守を押使とし阿倍朝臣安麿を大使とし藤原宇合を副使として唐へ遣はされけるが此時下道の眞備臣と云ふ酸に吉備大安倍の仲麿を留學生として遣はさる留學生とは遣唐使の諸生として從ひ行人をいふ也此時仲麿十六歲なりし其後十七箇年を經て聖武天皇の天平五年四月に又多治比の廣成遣唐使なり同き七年三月廣成歸朝の時仲麿は唐朝の風を喜びて唐土に殘り止り吉備公ばかり廣成に從ひて歸られたりこの吉備公十九年が間唐に在りて習ひ侍られし三史五經其外陰陽道の事軍制陣法〓に諸藝の事ともを記して聖武帝に獻せられけり此時唐禮百三十卷大衍曆一卷立成十二卷孔子及び十哲の像測影鐵尺鐵の方磐律管樂書要錄弓矢等をも捧げられしより唐朝の禮樂制度はじめて日本に傳はれりしかば仲麿は唐朝に殘り止られし故立宗皇帝深く其志を愛して名を朝衡と改めさせ左補闕の官を授け御子儀王の友とせらる扨程なく祕書校書の官に遷られけり又十五年の後孝謙帝の天平勝寶二年遣唐使を定めらるこの度は藤原〓河を大使とし大伴古麿と吉備とを副使とせられたり同き五年正月遣唐使の人々唐朝に入けれは立宗皇帝蓬萊宮に於て外國の使者共の謁見を受らるゝに日本の使の座を蓬萊宮の西畔の第二吐蕃國の下に設け新羅の使を東畔の第一大食國の使の上に設けたりけるを見て副使たりし大伴古麿これを論して曰古より新羅は吾日本へ貢を奉る國也然に今日新羅の使は東の上に列し吾國の使其下に列する事不快なる事の由申ければ唐の大將軍吳懷寶古麿の肯せざる色を見て直に新羅の使を引て西畔第二吐蕃國の下に列し日本の使を大食國の上に列せしとぞ此時玄宗仲麿に命じて今度の遣唐使を接待せしめられたり扨〓河日本へ歸らるゝ時仲麿も歸朝せんとて玄宗に暇を請て歸られんとしたる時平生交を結びたる詩人文人に書殘されたる詩あり其詩は文苑英華唐詩品彙等に載たり斯りければ仲麿が友たりし王維包佶趙華など詩文を作りて送別せしが旣に船出せんとて明州といふ海邊迄出られけるに唐人餞別の宴を設て仲麿を饗しけり夜に入りければ海上の月を見て天の原の歌を讀まれたれど國音通せずして唐人共其歌の意を解する事能はざる故漢語に譯して見せられければ何れも感嘆したりしとぞ夫より明州を出帆せられたるに計らず海上にて難風にあひ旣に魚腹に葬られむとせられしが辛ふじて安南國に漂着しければ〓河と共に再唐朝に入られぬ其時古麿と吉備公とは恙なく歸朝せらる然るに仲麿日本歸朝の海上にて難風に逢ひ溺れ死したりし由唐土に風聞有ければ李白は詩を作りて是を哭したり其詩は日本晁卿辭帝都片帆百里繞蓬壺明月不歸沈碧海白雲秋色滿蒼梧晁卿とは仲麿唐にて改名して朝衡と曰けるに朝の字と晁の字と其音通ずる故に晁卿とも曰し也扨仲麿は難風の災を逃れ暫く安南に在て唐朝に歸られければ玄宗もとの如く官を授られ御子肅宗皇帝の代に至りて上元年中に仲麿を左散騎常侍安南都護といふ官に擢られ又光錄大夫御史中丞北海郡開國公に轉せられ三千戶の食邑を與へられけるが肅宗皇帝の御子代宗皇帝の大曆五年正月に七十歲にして唐に卒爛柯堂基話卷之四
爛柯堂基話卷之四せられければ代宗又潞州の大都督を贈官し給へり彼仲麿と共に歸朝せむとしける〓河も終に唐朝に止られしが此人は左大臣房前公の子成故孝謙帝殊に親愛し給ひ後に渤海國の使高元度に言付けて歸朝を勸め給ひけれど〓河强て唐朝に止まり名を河〓と改めける然に光仁天皇の寶龜元年三月新羅より級飡金初正等を使として日本へ貢せしに不禮の事ある故此使を咎むべき事なりしかと此新羅の使唐朝より仲麿〓河等が書翰を事託り來りたる功に免して其不禮を咎めず太宰府に於て饗應せさせ給へり然るに同き十年五月唐朝の使者孫興進秦怠期等日本に來りければ右大臣河麿の館に於て唐使を饗せ給ひ綿三千屯を賜りて歸國せしめ給ふ此使に仲麿唐朝にて卒せし事を聞せ給ひしかば此國の仲麿が家の衰へたるを憐み給ひ葬祭の料として絶百匹白綿三百屯を給はれり其後五十七年を經て仁明天皇の承和年中藤原の常嗣と小野篁を唐使に遣はさるゝ時先年より以來日本の使の唐國にて死したる者八人に位記を賜はり正二位を贈らる其詔に曰故留學問贈從二品安倍の朝臣仲滿大唐光祿大夫右散騎常侍兼御史中兩北海郡開國公贈滯州大都督朝衡に正二品を贈と書せ給ふ初仲麿入唐の節僚人として渡りたる羽栗吉滿といふ者あり仲麿に從ひて唐に在る間に唐女を娶て一子を生めり其名を翼と曰しが天平五年廣成歸朝の節仲麿に暇を乞ひ一子翼を伴ひて日本に歸りぬ此翼といふ者性質聰明にして歸朝の後出家して學業殊長し朝廷に聞へければ還俗せしめて正二位を授けられ桓武帝の延曆十年迄存命せしとぞ古傳に仲麿は中務大輔船守が子とあれども此船守といふ人續日本紀に見えねば慥に知り難し安倍氏は孝元天皇第一の皇子大彥の命の後也安倍仲麿あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出し月かも古今集覊旅の部にもろこしにて月を見てよめるとて此歌を載られ歌の左の注に此歌は往昔仲麿を唐土に物習はしに遣はしたりけるにあまたの年をへてえ歸りまうでざりけるを此國より又使罷りいたりけるにたぐひてまうて來なむとて出立けるに明州といふところの海邊にて彼國の人うまのはなむけしけり夜に成りて月のいと面白ふさしいでけるを見て讀めるとなん語り傳けるとあり是は仲麿を學問の爲唐土へ遣はされたるに數十年を經ても歸朝せられざりしところに〓河と云人を又唐へ遣はされて其〓河に伴ひて仲麿も歸らんとて明州といふところの海邊より出帆せらるゝ時唐人共が仲麿の爲に餞別の酒宴をしたるに夜に入て明州の海の上へ月の面白ふさし出たるを見て讀れたるなり歌の心は天の原とは空の一面に廣きことなり其空を遙に見渡せば面白ふ月が出てあるが此月は我幼少の時奈良の都の三笠山より出たる月と同じ月なるが此年頃久しく唐に住たる時常に月をみたれ共斯樣には思はざりしに此度久々にて故〓の日本へ歸らむと思ひ立たる故この明州の海上へ出る月を見ればふと三笠山へ出たる月の事が思出さるゝといふ心也又此歌を貫之が土佐日記には靑海原ふりさけ見ればと書れたり昔しより靑海原とも天の原とも兩樣にいひ傳へたる歌にて有りしにや土佐日記曰廿日夜の月出にけりと云々昔安倍の仲麿といゝける人唐土に渡りて歸りける時に船に乘るべき處にて彼の國人馬のはなむけし別れを惜しみてかしこの唐歌作りなどしける飽すやありけむ廿日の夜月出る迄ぞ有ける云々あをうなばらふりさけ云々かの國人聞しる間敷覺へたれどことの心をおとこ文字にさまを書出してこヽの言葉つたへたる人にいひ知らせければ心をや聞へたりけむいと思の外になん愛ける云々唐書地理志曰明州は屬江南道開元二十六年置以境有四明山爲名云々爛柯堂基話卷之四
爛柯堂基話卷之四遣唐使は三十四代推古天皇十五年始て大禮蘇我妹子を使として信を隋に通ぜしより後屢國史に載たりそが中に仲麿は唐の玄宗の時にして滿朝盡く文苑の中に立て終に右を讓る事なく三笠山の一章の天地皆震動す彼の四方に使して君の命を辱めざるものか後歸朝の折から海上颶風に逢ひて安南國に漂流し年を歷て再び唐朝の賓となり彼地に卒す江談曰寫本三卷也大江家の人々の詩文を論ぜし談話ともなれば江談と號す安倍仲麿唐土に卒して鬼形に顯れ吉備大臣に見へしといふ俗說古く言傳へし事と見へて此書に載たり仲麿渡唐後不歸於唐家樓上餓死吉備大臣後に渡唐の時見鬼形與吉備大臣言談して唐土の事を相〓ゆ件の仲麿は歸朝せざる人なり文苑英華に仲麿が五言排律詩一首あり胡公とあり朝衡と云しが字相似たる故誤たるか啣命本邦に使するとありて天中戀明主海外思慈親と云句ありて仲麿に相違なしといへり唐詩品彙にある李白が絕句は前に記しぬ送祕書晁監還日本王維積水不可極安知滄海東九州何處遠萬里若乘空向國惟看日歸帆但信風〓身映天黑魚眼射波紅〓國扶桑外主人孤島中別離方異域音信若爲通安倍仲麿入唐記の事爰に又安倍仲麿入唐記と題せし俗書あり其大意は四十四代元正天皇の御宇嘉瑞ありて靈龜と改元あり其頃迄日本未だ曆法傳らず之に依て舍人親王の奏によりて唐土に金鳥玉兎集と云ふ曆法の書の有之由聞えしかば使を遣はして求め給ふべき旨天皇勅命ありしかば其使を選ばるゝに安倍仲麿其選に當り遺唐使となりて唐土に到る是玄宗皇帝の開元四年也寶物を獻じ天皇の勅意を述ぶ楊國忠張九齡等商議して先づ鴻臚館に置き追て沙汰に可及旨勅定有之然るに仲麿が人物風標尋常に非ず玉兎集を此者に渡しなば歸國の後大に用ゐられ能國政治る時は却て唐土の益に非ず此者を留めて不歸に若かずと歌舞の美女を與へて其意を示すと雖も忠臣故不肯速に書を得て歸らんことを求む時に安祿山といふ侫姦ありて凌雲閣といふ高きこと三十丈の樓上にて饗應し日西山に傾く頃皆々樓を下り梯を去りて捨置く故遂に樓上に餓死す年を經て求法の爲入唐の僧道慈の歸し時其音信を問ふに仲麿が存亡不知四十六代孝謙天皇の御宇吉備大臣又曆書を求る遣唐使たる時仲麿が忠魂属鬼となりて吉備公に唐土の事を〓ゆ唐にて又吉備公をも殺すべく議しけるに罪なくしては殺し難きより難題を設け基は未だ日本へ傳へざる故基の勝負によりて殺すべく謀り雍州の官人玄東と云名棊に命じ朝元閣に於て吉備公と圍棊せしむ時に仲麿が靈吉備公が蔭身に添て〓へし故一手も閑手なく七八分濟みよりし時玄東が妻隆昌女といふ者是は玄東よりも棊を能せし故夫の大事一命にかゝる某也と願ひ出で給仕の女の眞似して傍にありて觀るに棊終局に及び目算するに夫玄東一目の敗に見極めたり爰に於て如何とも爲すべき樣なければ黑子一石を呑て助たり棊を作り終るに果して對棊になりぬ玄東は唐土第一の名棊として日本の棊といふものを始めて打つ者に不勝甚恥辱を得し也然に約束なれば數月逗留の後玉兎集を吉備公に賜る歸朝の日限も定りければ又安祿山が奸謀にて吉備公を殺すべしと出帆の海濱へ追手を向はしむ時に玄東が妻隆昌女追手の將たらんことを願ふ其旨意は夫玄東名棊の撰によりて圍棊を命ぜらるゝに始めて打し吉備公に爛柯堂基話卷之四
爛柯堂基話卷之四對基になりしを恥ぢて病ひに臥しけるが危篤に及びぬ依て復讐の爲めに强て追手を願ふ實は黑子一目呑し時後漢の神醫華阿が祕藏して病症の在所を察る明鏡あり此鏡は衣服の上より懷中は勿論五臟六腑を照らす奇妙の明鏡なり圍基の時此の鏡を以て席にありし人々を照らし見るに子細なし隆昌女一人鏡に向はざる故詮議殘すべきに非ずとありて女を照しけるに黑き石子の形なるものを紙に包みし如くにて昇降する事顯然たり依之女が罪に極まるべき所を此詮議は吉備公可致とて仁心を以て胎子に申紛し罪を赦されたり此恩に報はん爲追手を乞得て出帆の所を遮り復讐の旨を述ぶ吉備公黑子一目を我に返すべしと云ければ其時隆昌女申は夫が病危しといふは僞なり其日の恩を報はん爲追手を乞いしなりとく船に召さるべしと云ひさま劔に伏して絕ぬと云々甚拙き物語なれ共古く傳へし國字の書なり末に野馬臺の詩注釋あり梁の寶誌が日本の未來記なりと云へり寶誌和尙は梁の時代の僧なり圍棊の日の棊盤は草蘚な煉て製せし物基子は崑崙山に產する晶明石也といふ○草〓の盤に付て別話あり佐々木と工藤遺恨話扨も其頃佐々木家と工藤と不思議の遺恨起りて已に騷亂に及ぶべかりしを諸士別當和田義盛和平を計り事故なく靜謐にぞ歸したりける其趣意を尋ぬるに或時鎌倉殿御前に於て圍棊の會を催され在鎌倉の諸士何れも伺候し終日基をぞ圍まれける佐々木三郞盛綱君の御相手となり北條時政大江廣元入道善信等側に候して見物す盛綱が嫡男信實生年十五歲に相成けるが父と倶に候して同く傍に在りて見物す然る處に工藤左衞門尉祐經伺候し座に付んとするに何れも棊の勝負に見入額を鳩て座しければ信實が後より兩手を以て抱き退け一言の會釋もなく其跡へ居り見物せしかば信實若年なりと雖も祐經の無禮を憤りけるにや顏色變じて座を立ちけるが此折しも人々は棊に見入りて是を知らず大江廣元一人此の樣子を見て祐經が所爲傍若無人の擧動かなと思ひ居られしに氣逸の信實腹に据兼けん頓て立歸り邊りに有合ふ基笥おつ取り祐經の面へはつしと打付けるか額破れて血の流るゝこと夥し君を始め座中の面々大に驚き祐經を介抱しける間に信實は早く逃げ去ける父盛綱は斯と見るより袴の裾を踏したき我子を追かけ出けれ共行方知れざれば大江廣元に附て愚息信實御前を憚らず奇怪の狼藉に及ぶの條左右に能はず候得共其行方を失ひ候定めて宿所へも歸り候まじ此上は何方迄も尋ね出し候半且某は落去の間遠慮仕差控へ候半此由宜敷御披露賴由申置宿所に歸り出仕を遠慮したりける工藤左衞門尉は疵養生致すべしと御暇給はりて其宿所へこそは歸りける和田義盛匿信實話去程に佐々木信實は一時の怒氣に堪す工藤左衞門尉に疵を課せ其儘營中を逃去けるが左衞門が郞從等之を聞主に仇せし小冠者めを遁すなとて追掛る信實は桐か谷迄逃延しが工藤が家來と覺しくて二三人追掛たりしかば事々しや何程の事あらむと松の木を小楯に取て待掛たり工藤が家來夫と見るより駈寄て組付くを信實は父に劣ぬ强力なれば何の苦もなく振解き壹丈許抛付れば此勢ひに僻易しうろつく者を引摑み締上る殘りし者是を見て叶はじと思ひけむ跡をも見ずして逃失けり信實はさも社あらめと打笑らひ夫より和田義盛が宅に赴き卽ち對面してしか〓〓の由を語り定めて上の御沙汰候べし宜敷計ひ給るべしと申ければ義盛逐一に聞終つて祐經が所行法外なりと雖も君の御前をも憚らず狼藉に及ばれしは其許の越度たるべし何れ雙方相糺せし上某惡くは計ふまじ先夫迄は此方に居らるべしと申されければ信實承り一旦の憤りに前後を忘れ御前を騷し候段某が誤り申上るに言なし若上の御怒り甚敷候はば切腹仕候べし自然左衞門尉方より某を乞請申義有之候はヾ何卒貴所の御芳志を以て其義を支られ切
爛柯堂某話卷之四腹被仰付候樣御執成給るべし何れに相果候命なり共敵人の手に渡り亡れんは何程か口惜しく候と思ひ込むて賴ければ義盛信實が健氣の有樣を深く感し何樣心易かるべし某が一命に掛て爲惡くは計ふまし先打くつろき心置なく此方に居て左右を待たるべし迚義盛竊に北條が宿所に至り時政に對面して申されけるは今日御前に於て佐々木の子息工藤左衞門に對し狼藉の次第謂れあるべき事也信實若年と雖も故なくして斯る擧動を成すべからず北條殿にはその節御同席の由承る定めて始終の樣子御存あるべし如何なる趣意成し事に候哉と尋ねければ時政答へて去れば其折節某も同席に候ひしか共基の勝負に心移りて事の子細は存不申信實が狼藉に及びしに付驚き立合候得共何の趣意とも起りは存候はずと申されしかば義盛再び答話に不及して立歸り夫より直に大江廣元が宿所に到り右の次第を尋ければ廣元打點き此義に付竊に其許へ通じ申さんと存罷在しに幸の御入來也と御前の樣子委細に語り然れ共此事の始終を知りたる者なき故に一圖に信實が罪に決す某一人此始末を知ると雖も其役に非ざれば其許に通じて無事の計ひ有らん事を存居たる所也と申されけるに義盛具に聞て信實の詞と符合せる故心に悅び廣元が傍近く居寄て申けるは貴所の申聞らる通にては信實御前を顧みざるは彼若年の誤ながら祐經と喧嘩のことに於ては强ち信實が非とも申難し況や又祐經に渡さるべき筋毛頭無之某職分の事なれば宜しく計ふべし是は偏に工藤が申條にて事なく相濟へき義なれば祐經方へは內分にて達すべし貴所には內意を以て君へ箇樣々々に言上し給はゞ雙方全く治るべし又盛綱にも某より申含め言上致させ候半と申ければ廣元も同意の事なれば君へは某宜しく申上べしと閑談數刻に及び義盛は暇を〓げ頓て宿所へぞ歸りける佐々木盛綱感和田懇志話斯て和田義盛は佐々木盛綱が宅に到り盛綱に對面し此度子息不慮の儀に因て逐電せられ其許の心配察し入處也然れ共信實殿を召進せらるには及まじ外人の噂を承るに信實殿には出家を遂け退去せらる由其許には此趣を申後日に歸り來る共一所の地も讓申間敷由言上し給へ某も亦宜敷計ひ參らせむ然して信實に日に歸らるとも一旦事濟たれば君の御怒も有まじ其後善行のある砌御詫を願ひ元の如く親子の結びも成べきことなれば早々此旨言上あれと申ければ盛綱淚を浮め御芳志千萬忝しと武勇名譽の盛綱も子故に迷ふ習とて義盛が情の言葉世にも嬉しく思ひける斯て右の趣言上申ければ君聞し召れ盛綱が子を思ふ心根を察し給ひ且は前々の功を思召れ如何にも願ひの趣聞屆たれば追て沙汰すべしと仰下されければ盛綱有難しと御禮申上退出をそしたりける斯りし所大江廣元竊に申上られけるは信實の事强ちに大罪と申にても候はず御前を辨へざるは少年の事故前後に心付ざる過にて候半祐經に對し狼藉致し候には祐經方にも誤り有之候得ば信實を尋ね出し事を糺しむる時は自然と工藤が誤も相知れ盛綱之を聞かば怒りを含み騒動に及候べし此儀は信實出家せしに免せられ罪を宥め捨置れなば盛綱其御仁心を有難く思ひ愈忠誠を勵み申べし二ツには祐經が誤も顯れず互に意趣を殘し申間敷候得ば祐經方へ御使を遣され信實右の次第なれば祐經に於て所存ありやと尋仰られなば其身にも誤あれば必定聊も所存なき由を申上候半其時祐經に意恨なくば信實が無骨の罪は少年たると出家せしむるに免せられ其儘差置るゝに於ては雙方無事に相納り申べくと述しかば鎌倉殿聞召れ祐經が誤とは如何なる事にやと思召れしかども穩便第一の廣元が申すことなれば僞は有ましと則ち其旨に隨はせ給ひ祐經が方へ御使をぞ被下ける和田義盛說工藤祐經計和話爛柯堂基話卷之四
爛柯堂基話卷之四去程に和田義盛は工藤祐經が方に行て對面を乞けるに祐經頃日は保養の爲引籠り罷在れば對面は叶ひ難き由斷申ければ義盛重ねて密々の用事に付面談致し度義有之間病床へ推參可致と申ければ是非なく對面に及びける義盛祐經に向つて申されけるは今度佐々木信實殿中に於て貴邊に對し狼藉に及び其場より逐電し出家せしむる由承りぬ夫れに付其許信實に意恨ばし有之ば某諸士別當の職なれば何國までも尋出し狼藉に及びし趣意相糺し申すべし若し又穩便之儀を存られば君より御尋ねの節意恨なき由御返答申さるべし何れにも其許の存念次第如何樣にも計ふべき間心底の趣遠慮なく申さるべしとありければ祐經は元より少しの疵なる故惱事なきに仰々敷振舞諸人の見舞を心地よしと思ひて態と重くもてなし居る所へ義盛來りて見舞は謂はず右の談に及びしかば祐經少し氣に障りしかども思慮深き男なればいや〓〓和田は別當職といひ殊に智惠逞しき男なれば我にも越度ある事を知りて斯はいふやらむ若し惡敷返答せば却て身の爲宜かるまじと分別し笑らひを作りて申けるは仰承り候ひぬ箇樣に引籠り罷在候は疵故にては候はす殘暑に侵され折々腹痛忍び難く候故保養致候也信實が事は畢竟少年の事なれば何ぞ心に掛申さん元より佐々木父子に意恨なければ心ありて致せし事にても候まじ時に取つての戯れならん疵を蒙りしは某が不運にて信實が義に付て聊も宿意無之候へば必ず御心に掛下さるまじと返答申ければ義盛聞て尤も左社候半事を好は小人の所爲なり治るべき義は成べきたけ穩便の計ひ社有たけれ彌御邊其了管に於ては某宜しく無事を計り申さむとて義盛は歸りぬ程なく鎌倉殿より御使を下され祐經が所勞を訪はせられ重ねての上意には信實出家をとげ遠く遁逃せしむる由祐經存寄の訴へ申べしとの義なり祐經平伏して難有上意を承り候某頃日外邪に侵され出仕を怠り候を痛みに因て籠居仕候樣に思召され候段奉恐入候面上の疵は聊の義にて相惱み申す程にても御座なく最早平愈仕り候又信實が儀は畢竟小童の義に候得ば私に於て何の所存も候はず殊さら出家遁世致候事定めて其身の誤りを悔て斯の振舞を仕りしと存候此上の御憐愍には信實が狼藉の義穩便の御沙汰成下され候樣願ひ奉り候間此由御前宜しく御執成被さるべしと神妙にぞ相述べけるこれ偏に義盛が計ひに因て也されば右の一件無事に相濟ければ盛綱大に喜び和田方へ禮謝に及びける義盛籍に信實我家にある由を知らせ時節を見合せ世に出すべし夫迄は某預り申さんといふに盛綱驚き益々和田が厚情を感し宜敷賴み存る由禮謝して歸りける棊所の始祖本因坊算砂豐太閤より棊所の證文被下事棊所の始祖本因坊算砂法印日海豐臣太閤の御時天下の上手とも數輩と試の棊手合被仰付候所本因坊諸人に勝越候に付初而某所に被仰付手合以下の法度可申付旨御朱印御證文被成下之子時御加恩等拜領す天正十六年閏五月十八日也御證文に閏五の日月を記して年號なし秀吉公治世中の閏月を檢するに文祿二年也思ふに此時朝鮮の役和して無事閑暇の日なれば果して此時と考へ定ぬ其後算砂の圍棊勝負日記を見しに慶長八年の條下に十九年以前試の某被仰付と云事見えたり由之又疑ひを發して曆書を推すに天正十三年也考るに十四年四國を平らげ十五年九州を鎭め誠に天下太平に歸し十六年聚樂城へ天皇の幸を願ひ獨關東の北條が不廷のみにて一統同樣に成し故に百廢を興す御志にて棊所をも設置給ひしと見えたり依之圍棊は日本海外の國より勝れり西土にても日本の善棊を稱する諸書に見へたり小技と雖も異國に勝ること是亦太閣が大武の一端を思ふべし大〓康熈雍正中の國手に黃月天なる者あり日本が名棊に釋日海あり奇對と云ふべし不圖思付しまゝ爰に記しぬ圍某本朝に於に翫び來ること尙しと雖も就中信長公の御時より世に流行し秀吉公棊所を置給ひし已來手合等相定るなり閏五の事を又考るに日爛柯堂基話卷之四
爛柯堂基話卷之四本文明の頃より天正の半まで東西南北一日も易からざるを秀吉公の武威にて次第に平擾し給ひぬる其功績偉なり天正十二年夏柴田勝家を亡して間もなく十一月二十日秀吉公大納言に任ず同十三年內大臣と成給ふ是より宣下なけれども世人將軍と稱す然れば此年より既に天下の威權秀吉公に歸す國家多事と雖も意とせず技藝の詮議に及ぶ其大量推察すべし試の棊被仰付しは十三年にて御證文賜りしは十六年也其文中但仙也儀は師匠の事に候故互先可爲とあり如是の小事にて師弟の禮を存し給ふ行屆し御事共感入ぬ因に云一書を見しに天正十三年七月二十日に秀吉公關白宣下參内前日より以の外なる大地震にて〓凉殿其外殿々も破損しける廊下も半崩れ掛し體也寅の上刻上拔延引に及び斯迄の大禮を日は延すは如何と禁中の衆議一決して案家へ勘文を可差上旨然は此節延引する事秀吉公御殘念に思召さるゝ段石田治部を召して竊に案家の者共へ今日の勘文を差上ぐべしとて五方博士五人方へ今日銀子百枚宛被下しかば算木にも及はす勘文を早速差上しかば昨今の日取叶はぬ故如是也今日申の刻に入候はゞ少しも凶變あるまじと申上ければ卽秀吉公參內あり公家衆各追從して未の下刻御前へ御出ありて辱も冠を被下秀吉公頂戴ありて頭の上へ置と否や哄と笑ふ聲を何者ぞと互に顏を見合せて只今笑ひ候は天井也-といふ聲の下より猿の頭に冠着にけりと哄と笑ひしは實に猿に似たる顏にて能々見るに可笑故變化の所爲かと各呆けるに秀吉公は不取敢上の句を付られける元服はけふの未の終りにて天子叡感不斜關白の詞は鬼神も感應ありしやと御感吟數遍なりしが當意卽妙の付句に依りて無恙御禮終りけり按るに秀吉公此場に臨て當意卽妙貞任に優る事遠し十三年內大臣同關白宣下不審あり猶可尋爛柯堂基話卷之五金吾中納言秀秋の事金吾中納言秀秋の由緒を尋に元來木下肥後守定家の三男にて若狭少將勝俊宮內少輔俊房には弟也大閣秀吉公の政所は秀秋には伯母也然るに政所は大闇御在世の砌御機嫌を伺ひ被仰上けるは私事淺野又右衞門長勝が娘お佞にて姿醜く誰ありて緣組申入す候所利家の媒を以て殿下其頃木下藤吉郞と申信長公〓洲御在城の節は殿下も炭薪の軍役を被成僅の御宛行故不自由の上若年の御身持不行跡の事共故諸方より借金買掛り等の催促雨の降る如く申來下人は只兩人ありしを後は壹人召仕はれ自分は手鍋下けて艱難の思ひをとげ漸々借方の催促も次第に薄く成行候ひし其頃度々懷姙致し候所被仰候には加樣に借金方多く家來も兩人遣ひ難き程の貧乏の中へ子供出來ては仕官の勤務遂け難し何卒子の出來ざる灸にてもせよかしとの御意ゆへ自分も熟々考へ候に實にも二つ召小袖の下着は自分の小袖の丈を縮め縫上し御番の折は間を合せ斯る侘しき故いかに欲きとても子供が出來ては身上の障り何卒內證の苦勞を薄くし勤番出仕を快くさせまして立身出世吉事を見んと中椿とやらん云ふ醫師へ伺ひ濟した灸の當座は能きいて嬉しく子種が止らぬと歡しは今の歎き其後何程神佛へ願ふても子種の下る事もなし然れ共御身關白の高位に昇り給ひし御運に誘引れ今は北の政所樣と號し大小名の崇敬昔を思へば勿體なき程の果報朝夕珍膳美食飽滿ても樂しみ共思はず甘し共思はざる何故かと思召そや懷姙して流したる子が三人迄今頃育ち成長せばいか計の歡び日本の大小名に圍繞渴仰せられん者をと是のみ悔敷奉存候と御恨
爛柯堂基話卷之五み被仰候故大閣も殊の外御難儀に思召尤也其節の某が貧乏は世界の中に又有べからず實に其節子種を止し報ひか天罸か隨分心中に願へ共出來ず我妾を幾百人か差置も榮耀の樂しみ計に非ず是が子を產ふか彼か產そふなと手を付し女當年迄六百人に越ゆれ共扨々子種が盡切ないと見へし此上は其方望の者を養子に致し能心を慰み親子の間似をも致さるべし望まれよ〓〓と被仰し時に政所被仰には然らば早速願に御座候へ共哀れ兄肥後守子供の中を御取立被下候はゞ難有との御願ひ也依て秀吉公も御考へ被成肥後守子供三人の中また三男が可用立と思ふ生れ也取立て政所の心を慰め進すべしとありて秀次の御弟に被立從三位中納言秀秋と稱す御懇志誠に御父子に同じ御寵愛ありしかば大小名の崇敬不大方然るに其頃十州の大守毛利中納言大江輝元實子なし依て大閣の思召は秀秋に別段の知行大國の一箇國も可被下に只今闕國はなし御藏入を減しては如何幸かな輝元の養子とすべしと旣に御前に於て囁々有しを御子性衆の中に小早川隆景へ懇志の輩有て此沙汰ある由を告知らせしかば隆景思案致され大閣より秀秋卿を輝元へ養子と仰出されては解退し難し毛利家の事は日本無類の例にて血脈絕す古來は勿論中興大家となりて天下に名を響かせし因幡守大江廣元已來は一代も他家より養子にて續たる事なし此度毛利本家の輝元へ他家たる秀秋を養子と有ては嫡家の血脈斷絕といふもの也此隆景は三男にして毛利の庶子也幸哉我に子なし我家督をば秀秋を某が養子とし小早川の跡筑前一ヶ國を讓り毛利の本家たる輝元へは父元就の七男穗井田伊豫守元〓の嫡子甲妻守秀元は心も剛に智勇兼備たれば是を以て輝元の養子とし毛利の血脈を斷べからずと分別し軈て大閣の御前に出某儀老衰致し大老の一職を漸々相勤候體の所近年の儀病氣度々差發り候得ば幾年の齡を經べき雖然實子なく御恩祿の筑前の國を讓候子無御座候へば名跡某に至りて斷絕の段一生の殘念此事に候願は秀秋卿を隆景が養子と有て小早川の名跡相續被仰付被下候はヾ生涯の本望是に過ずと恐入て願ひければ太閣御一代御談合相手として數年の忠節無類の御相口成しかば早速隆景へ願の通被仰付しかば則隆景隱居し小早川左衞門督秀秋と號し備後の國三十萬六千百四十石を讓りけるが金吾は左衞門督の唐名なれば金吾中納言秀秋とは稱しける豐巨大闔與菊亭右府關按るに此說實を得たりといふべし一書に備後の石高五十二萬石とあり猶可尋業の事の次に入る竹中半兵衞軍旅棊の譬天正十年羽柴筑前守秀吉信長の命を受て中國を征伐備中高松城水攻にして是を落し勢ひ破竹の如し干時安國寺世話をやきて毛利家との和睦旣に相調ひ彌和平仕るべき前の通り分國相違なきに於ては早々申合すべしと三度目に申來る處六月三日の夜也是より御返事可申入とありて返し給ふ竹中重治蜂須賀彥右衞門中村彌平治堀尾茂助淺野彌兵衞かた〓〓腹心の者共老若によらず此和平の所行當り難儀せし也如何各々は存ぜらるゝやと申されければ竹中申は是は一手先の見へざる下手の某と同じ事也色々道筋多しと雖も毛利家の所存測り難ければ返事無覺束然ればとて信長急變隱して隱し難し各存寄申して見給へ某判者と成りて其中のよきを可申候貴所も連歌の宗匠なればとで一句々々に手作に名句も出ず併し他の作意をば句每に理非を分て意味の淺深を判ずるが如くと申て竹中各口を守りてありければ誰も發せず時に蜂須賀彥右衞門申しけるは爰は正しく評定にては中々覺束なくして手さしならざる處に候一手々々討る一六の了簡を以て決せられ候へ其趣は毛利家へ此段明らさまに知らせられて信長は如斯不幸たれ共此上にも安國寺を以て申合たる如く彌和睦あるべきや又變を幸に秀吉を御討取の御所存にや此兩條を聞屆其上にて此の變を幸として弓矢に及は先某は運の勝負たるべし味方の二萬五千と毛利の五萬とは一倍違ひたれ共何程の事候半博奕軍とは此事也先年筑前守殿と九年の昔透破仲ケ間の博
爛柯堂某話卷之五奕は御覽被成御手前にも折々裸に成ても御覽被成たる御覺あるべし我々猶以也十貫文持たる者を五百文持たる者の取んと打博奕は珍らしからず常の事也百文持たる者が一貫文持たる者をさへ打勝て取り裸にする事度々也毛利家は五貫持たる博奕相手此方は二貫五百文の元手にて打掛り候へば此勝負は我等に御任せ候へ稻田と申合せ久振にて候へば若手の突破どもを使つて槍先の一博奕仕候はゞ慥に大利を取んこと十が九は慥に覺え存候其手立は只今申難しとの儀也竹中聞て打驚き是は蜂須賀殿天晴天下分目の評定とは此類の事也中々御器量なくして此境を決し難し依之さしつにても成就せず重治此存念ありと雖もすは其時に至りての取廻し其道を得ず蜂須賀殿なくてはと存候所偏に筑前守殿開運の前表如斯の決定最早他評に不及事也一當り當て御心決せられ候へと諫められしかば筑前守笑壺に入て扨は各々にも博奕平の望にて候哉秀吉も何寄好物也昔し裸に成ては逐出され人の物を斷りなく遣ひて打擲され博奕に負け欠落せし事今覺えて三年に十八度也竹ケ鼻の大博奕に赴しは美濃近江伊勢尾張の突破の寄合五貫十貫づゝにて取りつ取られつせし我一日一夜勝負まち〓〓なりし時桑名の不思議甚六尾張の神主武太夫兩人ふところ殘らず打負て殘し代物百に不足のはした錢を負腹立て小遣にせし某餅買て喰へと投付て歸りしを若輩心に博奕は錢の多少にも寄らず軍の勢の多少によらず一心の軍法爰なりと彼のはした錢を持ちて人の備へをかりても同じ袖の下よりちよくり袂のかげよりこそりと透間を組込々々して八貫文に半夜の內に仕上げ十貫文餘りも負のきし跡へ備へを入替て猿が出ました用心しやれ勝たる代物はづさるゝなと當付けたる詞は憎けれとも嘘にてはなく小盜より中盜までにつけたくせ是非に不及一心不亂押肌脫で打も打たり寅の刻より日の出の卯の刻迄に三十五貫百に働き八貫分運次第八貫より三十五貫は心と目利の勝負たり今此勝負を思出せば播州一ヶ國より中國をどちらか八ケ國を手に付んは運次第八ケ國が手に付て西三十三ヶ國は心と目利と人の和也蜂須賀一打うつて見よと笑を含し秀吉が此一打の下知蜂須賀彥右衞門が一六勝負の工夫のすへ終りて天下の某を開きし運評定とは後日に思ひ知られけり太閤毛利征伐の事因云太閤が毛利を討し時信長公本能寺の變起來りしかば毛利へ和談を申入しに小早川等始終太閤に敵し難きを計り和睦せしと諸書に皆いへども事情に於て測れば未信し難き事あり然るに魔釋記載る處にて見れば大意は同じけれ共其間の事情尤詳にして信ずべし其說に曰魔釋記卷之一荒木攝津守囚小寺官兵衞條備中高松の城を攻らるゝ云々官兵衞口利者なれば約束堅くしてこそ歸りける其夜半はかりに從京都飛脚來て今朝上樣を明智が討奉りて候と申狀をぞ捧ける云々秀吉流涕打伏し給ひしがかつはと起て某も左樣存る扨天下の取樣は何とすへきと仰ければ官兵衞申樣今朝信長公を明智が討奉ると注進七十餘里の道也是を一日半夜に來る事天の見へて候毛利殿と和睦の手つかひ拍子合にて候此事中國陣へ明日中にも聞へ間敷候明朝人質を請て後は此儀毛利陣へ聞へたり共變替は不可成左にて先明智を可追討御後詰を可賴通被仰急に登り給ふべし云々其夜明ければ官兵衞は隆景へ使者を遣し昨日申談する通人質早々被成御渡候へと申入たりければ晝過迄延引しける此事毛利殿陣へも聞へしかば毛利一門家老共集りて被相談ける其中に吉川被申けるは今迄人質を渡さぬ事にて仕合なれ最早天下は此方の物也羽柴浮田に人質出せと可申其に異儀に及ぶならば大勢爰に集相こそ幸なれ推掛て可打果と申ければ隆景被申けるはいや〓〓さに非ず勿論天下は此方にてもあれ未だ信長の御子三七殿お茶棧有其上越前に柴田甲斐信濃駿河遠江三河尾張美濃近江伊賀伊勢大和河內攝津に松平瀧川前田中村丹羽木村其外歷々衆爛柯堂基話卷之五
爛柯堂棊話卷之五有之此衆三七殿を可守立然る時は羽柴浮田人質不可出其時は可及合戰兩人も手柄者なれば彼れを討むに味方の人數も手負死人可多其後登り明智と戰はんに明智も臨天下程の者なれば定て可爲大勢其上揉合勞れたる處に本國の猛勢競ひ來る時何と可合戰哉と被申ければ吉川聞て尤の仰にて候さあらば隆景の天下の取樣承らんと被申隆景被申は先和睦は能候人質渡したらば其質は姫路に可置然て羽柴明智と合戰有べし何も劣らぬ逸物なれば軍は暫らく可揉合然る處へ後詰の體にて押寄明智勝たり共明智を討へし又羽柴が勝になる共是又輙可討その後大軍都に在之方々への手遣ひ有之其時の樣子によるべしと云れければ此儀に同じ人質には隆景弟元包を被出則隆景召連被參ければ官兵衞出合元包同伴にて秀吉に對面せらる隆景被申けるは私弟人質に進之候箇樣に申談上は輝元も疎略に不存候御前にも左樣被思召候へと云々とあり諸書の說にては太閤始より誠を明し本能寺の變を此方より告和談せし振なれど戰國變詐の時誠心計にて屆へきに非らず前書の說にては先人質を取收其後に變事を告候積なれ共其事既に敵陣へも聞へしと云るは事情かくあるべき也又隆景の和談を聞入しも一旦の計にて兩虎の鬪の跡へ付込了簡にて先和談せしと前書にも是又事情さもあるべし隆景は變に通ぜし才子也斯の如き時變に處するの術なく空敷機をはづし太閤を圖らざる事あらむ哉機會を測り暫らく和し後の變を窺し事實情ならむ諸書の說は事情に遠き成るべしもし太閤明智と戰ひ決し難くば隆景が謀る所圖に當るへかりしが明智一戰に打負太閣の勢益盛なりしかば隆景も不得巳誠に和談の事を遂しは智者の慮も又及ばぬ處あるべし綠野園隨筆に見へたり水戶彰考館總裁川口長孺一時伺菴古賀先生と此談に及しに先生は魔釋記の說は不被取由白石新井先生も云へる事あり毛利と和談の擧は氣一世を蓋ふとも云べしと圍棊口傳の事圍棊口傳棊聖式中取要載之〓深說云まねび棊といふ事ありたからる樣普通の人は不知云々按るに何の義といふを知らず思ふに中央の勢子へ先を打ちて眞似をする時は下手の者上首へ對しても不負持某か一目勝には是非共打ち得るもの也といふ然れ共是は俗說なり實に其理あらんには專心致志にも不及又可樂技にもあらぬ也十八着を下す時は眞似の出來ざるなり童蒙の爲其圖を出して試に僻說を破る左の如し右同書に結事半番過る程より結を心に掛て結鼻をとりて敵に一手をも先手を取せじと次第を案じ續けてさす也はたをばかねて結に痛ぬ樣に打置也敵の石をさしよき樣に打成て置んと思ふ也所詮勝負結により能させば二十目などの負をさし寄る也手をとりなれ共鼻をたにも取はしめられぬれば上手こたへて無術事也着々に先を求めよと云是の意也二十目などの負をさし寄るは下手にある事也濱取事先ちりたる石を取したゝめてのち濱を取らるべきよしの氣色を見すべし敵と一度に取べからずまく事も敵に先まかせむする樣にすべきなり貴人などには去氣なきやうに手ともをさへぬ樣に振舞へし等同の敵にも此等の禮はあるべしまくには我前の近き處に濱をまくべしまきにくき處には石を取替などしてまくはえまかぬ時の事なりこほつにも先の石をこほちて押遣ると云々是も禮を存ずるなり圍棊口傳
爛柯堂基話卷之五右同書に目算事石を大旨立てと半番と結近く成てと三度すべき也せめていどむ時に合ては敵の濱を打とらん度に數へて可知なり敵の濱の員を知りなば目算不可違十目計の勝負は習にて我よはく覺也其心を行はからふべし勝に成ぬと覺ゆるばかりにて數へぬは過ちの時にいでくる也必かぞへ勝負を可存也目算第一の大切也目算のよきといふは數るとも見えぬ樣にてさり氣なく見せながら勝負を見る也上手なれ共目算愚なるは賴母しからぬ事也二十なれども目算よくすれは負をせぬなり見證の目を賴むべからず必ず惡きなり又石を打たる番は勝と見えて負る事のある也元祖本因坊も諄々是を言へり祕訣とすべし先手事初番の先手をひとしくあらんに於てはむねとの人若は先達には打せずしていそぎすべし所をおく義なり聖目に可打させておくは樣々しくてけましき也次の手は心にまかすべし先の手をば中聖目に打入べくやと覺ゆ其故は中に打つればかさをうたる中の地をとられず四丁不被懸又我爲には此等の事に皆便ある也但是はこのみによるべきにこそ按るに僻說不可信也右同書中雜に云老耄して棊のたけ下りぬと覺は籠居して基會の出仕な好ぞ又負まじき敵に負事あり共年の故とないひぞ人每に習なるに凡て自歎の氣あるべかちず棊の髓腦を知りたり共いたく心得たる由なみせそ少々はかたほけたれよくはすれども道の故實を知らずはしなゝき事也能々尋授べし縱手並は等しく共勝負は心づかひなるべし以前先達の口傳私の意樂大略如斯此等は心ばせなるべしかく見たるとも此定に打て惡き折もあるべし其許は筆も詞も難及事か只天性によるべし凡此道の極め我先の番に一度も負けざらむまへも棊本のまゝに習は制外といへり心と詞との幽玄なるべき也所詮心を〓して冥加を可仰凡は凡夫の極め覺るべき道に非ずや廢忘の料也後見に有恥勿披露云々同書に聖目の事由〓未分明說云局目三百六十八一年に宛其中に九有は九曜也云々本文につきて聖目とも又云聖目と此字を用事極僻事なり際目とは此字を用と云々さかひしり目とさかの兩字を略して聖目と云習へる也古言葉に文字を略する事儘ある也七ヶ條圍棊口傳正治元年六月日註玄尊云々按るに正治元年は源賴朝公薨ぜられし年なり今天保十五年凡六百六十四年が實に古書也某聖式中取要載之と云は橘良利肥前國藤津郡大村人也出家號寬蓮爲宇多院殿上法師圍基堪能也因爲某聖大德延喜十三年五月五日基聖奉勅作某式獻之云々棊聖式と云書は此基式の事か不可知圍基口傳は塩撿技保已一が集る所群書類聚三百六十遊〓部三に見えたり寛蓮法師が事亭子院の帝御諱定省宇多天皇なり帝おり居給ふて又の年の秋御髪おろし給ふて處々山ふみし給ふて行ひ給ひてけり考るに王代記には昌泰二年十月十四日於仁和寺出家法諱空理とあり宇多帝は寬平九年讓位とかや寬平法皇是なり肥前掾にて橘良利といゝける人うちにおはしける時殿上に侍ひて御髪おろし給ふければ軈て御供にかしらおろしてけり人にも知られ給はでありき給ひける御供にこれなんおくれ爛柯堂基話卷之五
爛柯堂基話卷之五奉らて侍ひける帝和泉の國に到り給ふてひねといふ處に在ますいと心ぼそふてかすかにておはします事を思ひて悲かりけりさてひねといふことを歌に讀めと仰こと有ければ此良利大德故〓のたびねの夢に見へつるはうらみやすらん又ととはねば旅寐といふにひねといふ名をかくしたり此歌新古今集に入るとありけるに皆人泣てえ讀すなりにけり其名を寬蓮大德といゝて後迄も侍ひけり大和物語按るに延喜中高野熊野抔へ御幸の事見ゆれば此時の頃にや寬蓮法師圍棊の事寛蓮法師を大裏に召して常に基を被遊ける延喜帝は寛蓮に二つ置き給ひける一時金の枕を賭に遊ばしけるに天皇負させ給ひければ寛蓮其御枕を賜て退出るを若き殿上人いさみぬるをもてうばひ取らせ給ふこと度々になりぬ然る後又天皇負させ給ひ寬蓮其御枕を賜て出けるを前の如く若き殿上人數々追來て奪ひ取らんとする時に寛蓮懷より彼の枕を取出し後町の井に投入れつれば殿上人皆去りぬ寛蓮は躍て退出にける其後井に人を下して枕を取上て見れば木枕に金箔を押たるなりけり早く實の枕をば取つて退出にける尤も賢くかまへけり件の枕をもて仁和寺の東に彌勒寺を造りける天皇も謀られたりと笑はせ給ひけり此寬蓮内より退出て仁和寺へ行くとて西の大宮を行に柏の袴着たる女の童來て白地にこのほとり近き處に立寄らせ給へ申すべきことの候といひければ寬蓮きゝて誰がいふにかあらんと怪しく思へども此女の童のいふに隨ひ車をやらせ行土御門と道祖の大路とのほとりに檜垣しまはしたる家あり女童こゝなりといへば下りて入ぬ見れば賤が小家なれ共由ありて住みなしたり〓げに簾几張かけ渡し棊盤棊石の笥おかしげなるをすへ其傍に圓座ひとつを置たり寬蓮よりて居たれば簾の中に愛敬つきたる女の聲して寄らせ給へと謂へば棊杯の許によりて居ぬ女の曰只今世に竝なき棊を打玉ふときけば何許り打給ふにかあらむと究て見まほしくて申入侍りぬ父にて侍りし者少し打習へ〓へ置て失せ侍りきとて盤のもとに近く寄りぬ其間に簾の中より空燒の香のほのめきいで女房とも簾のそみ合たり其時寬蓮棊石の笥を一つとりて今一つは簾の中へ差入れたれば女房のいふ其儘そこに置給へあらはに出て爭か恥敷打申さむ寬蓮聽て尤可笑くも云ふもの哉と思ひ棊石の笥を二つながら前に置きて女のいはむことを待たり然るに凡帳の綻より細く削りたる木の二尺許りなるを指し出して丸が石は先づ爰に置き給へといひて聖目をさす夫より寬蓮も石を置に女の打べき手をば木を以て〓ふる儘に打ちもて行程に寬蓮が石皆圍み殺さる寛蓮つく〓〓と案ずるに中々手向すべくも非ず稀有の事なり人にはあらで變化の者なるべし爭か吾に敵手すべきものも覺えぬに今此樣にうてるを凡者には非じと恐敷思ひて馴近づき物言べくも思はぬに女は少し笑たる音にて又やと云へば佗敷て尻切も履もはきあへず逃て車に乘りちらして仁和寺に歸り院に參りてしか〓〓の事候つると申ければ院も誰にかあらんと訝敷思ひ給ひ次の日彼の處へ人を遣して尋られけるに其家に人なく尼一人居たり其に昨日在しつる人はと問へば尼の曰此家は五六日東京より方違への人とて渡り給ひたりしかど夜前歸り給ひにき此家には筑紫へ居りき夫を知り給へる人にて來り給ひけり何處に住せ給ふ人とも存じ侍らずと申けり時の人いひけるは爭か人にてはあらじ寛蓮に會て皆殺すべき定めて變化の來りけるならむと疑ひける如佛坊圍棊の判せし事建長五年十二月二十九日法深坊の許に形部坊といふ僧あり彼とふたり基を打ける程に法深坊の方の目一作りて其上却を立てたりければ只には取らるまじといはれけり形部坊云目は只一なり刧ありとても
爛柯堂基話卷之五又目作るべき所なし傍に攻合ふべき石もなし逃て行くべき方もなしいかで取らざらむと法深坊が云夫はさる事なれ共外に兩切の處あり是を切にしゐたらむすればまさる敵を取つて勝つべし兩却の石をおしまれば目一の却つかさすましければなり形部坊兩却さる事にて候へ共夫を賴みて目一の石生ましき責て候へといはれなきこと也と互に爭ひて事ゆき難きによりて賭物を定てあらかひになりにけり當世圍棊の上手にことはらせける先備中法眼俊快に問ひたりければ兩切にかせう一つとは是也法深坊の理也と定む次に如佛にことはらするに判にいふ目一ありと雖も兩刧のあらむには死石には非ずと云り自筆に勘て判形加へて贈りたりけり此上又判者なければ法深坊が勝になりてけり形部坊賭物辨まへて風呂燒してきらめきたりけり抑の師走の二十九日さしものまきれの中に圍基うつだに打まかせて心付なかりぬべきに處々人つかひを走らかして判せさせたるこそ罪ゆるさるゝ程の數寄にて侍れ俊快法眼は感歎入興しけるとぞ古今著聞集第十二撰者橘楠袁于時建長六年應鐘中旬文政四年福山侯の文學太田八郞來書略圖〓諺の考へ奉御覽入候猶又御是正を願申候如佛が先蹤も候へば何卒此圖へ御判被成下儀は相成間敷哉後世の證にも相成候間偏奉願候著述へ書入度有之候旁奉願候以上かせう一つ何の義といふ不知太田文學が考に曰字三寫を經れば鳥焉馬となるかけめ變じてせめとなる再變してせうとなりしなるべし予是を思ふに能き考へなるべし右賴に付本因坊元丈宅へ仙知因碩元美因淑來りし時此話に及びし日五百餘年の後に如佛が非になりしと元丈笑ひける由太田へ答しことあり兩切と目一つの石は別々の事也異論あるべからず其後對話に右の事を問ひしに穩當とも難思により未だ著述へは不筆との答へなりき近來坂口仙得に此事を語りしに曰聞しことなり兩切加生一なりと云又一說に備ふべし楠正行圍棊の事楠判官正成が嫡男多聞丸正行年十一の時近習の靑侍等詰所にて基を圍み居けるが多聞丸來給ひて暫時觀居給ひしが大に笑ひ汝等兩人棊に勝むと欲するかと思ひしに互に敗けん〓〓とするこそ可笑と嘲り給ふにぞ靑侍等心怒り未だ某を知召さずして笑ひ給ふことの可笑さよと詰りぬ多聞丸我不敏なりと雖もかばかりの小技不學といふとも知らざらむや汝等が棊を圍むを見れば死すべき石を岸ずして殺し難き石を取らむとす是負んとするに非ずして何ぞや靑侍等彌々腹立然らば君臣に代りて圍み給へと讓る多聞丸少しも辭する色なく石を取て圍み給ふ須臾にして打勝給ひければ衆人愕然として大に驚き扨も何時の程にや斯は鍛鍊し給ひけんと感じ適れ成長し給はゞ上手にならせ給はめと舌を揮て賞しぬ多聞丸打笑ひ春雨の寂寞夏日の暑を忘るゝ幽情ありと雖も妨事費日の譏りあり汝等耽ること勿れと誠めて去り給ひぬ其夙慧人に過たること斯の如し道策師か棊譜を觀し事四世の本因坊道策お道」をが第数千勉強今の名人と唱一時被招て其家に到りしに師匠道悅が井目爲置たる某譜ありるはこの道策が事をいふ也道策是を熟覽せしに道悅が石盤中皆死石のみ也爰に於て道策歎稱し如何樣井目爲置ては如是に非ざれば相成間敷こと也下手を打法を得たりと感心せしと也右樣の拙き棊にも心を留て觀るは又感ずべし按るに是れ實論なり本因坊道悅棊の答問或人本因坊道悅と閑話の序に基の上手名人と云には如何樣にしてなる者に侍るやと問ひけるに道悅答
爛柯堂某話卷之五八二に上手名人と云ふ地位に到る者は其人の生得の器用に侍る大抵十人並の器用の者よく〓へ其身も此藝にはまりてよく勤數年を經れば上手に二つ迄の某には修行にてなるものに侍る何程〓へ其身も勤めても上手名人と云には其器量の生得ならではなるものにてはなし去るにより此藝を嗜む者多くあれ共上手名人と云は昔より僅なりと云へり按るに實論と謂ふべきのみ觀世太夫謠の三病を論ずる事觀世左近は謠に名を得たる者也後剃髮して安休と稱す謠に三病あり聲のよきと覺えのよきと拍子の利たると此三事備りたるもの多分謠にならずして止むと人に〓へぬ是何の道にもあるべきことなり器用を賴む者は自ら滿りとす自ら滿りとする者は工夫を不積工夫を不積者は諸藝の蘊奧を究むること難し予基の道に付按ずるに器用にして記臆能篤く好みて驕慢心なく勉勵不怠者名人上手に到るべし觀世は〓戒の爲に右の通り言ひしなるべし元祖本因坊算砂棊の日記の事利玄と十九年以前備前於岡山互先に相直候て其後方々にて都合十九番打申候此內十三番拙子勝申候五番利玄勝申候一番持基にて候指引八番愚拙勝越にて候樹齋と互先の時二番皆勝申候定先にて四番此內三番拙子勝候一番樹齋勝候山內首安と六番打申候皆勝申候其外の上手衆定先にて二十番仕候其內十四五番づゝ勝申候間色々不及書付候也慶長八年卯名判上樣總の園基上手衆被召寄窮の圍某仕候て卽皆々へ勝申候上手衆定先に被仰付候卽利玄と九年の間定先にて都合三百七十四番仕候內指引候て三十九番拙僧勝越申候也續勝は初小田原陣の年六番勝申次名護屋陣の年十二番勝申候其後又九番勝申候合て三度續けて勝申候利玄と百番棊の時十一番勝有之候右元祖本因坊自筆帳面の寫也天保十三寅年八月本因坊丈策林元美樣德川將軍家御代々中圍棊を御好み被遊し御方々の事御當家御代々の中にて某をお好被成候は第一權現樣也其御好被成候樣子種々の舊記に見へたり台德公も御見物御好にて中村道碩安井算哲其外も不斷御城へ被召圍棊上覽被遊候御上洛の節も二條御城にて道碩算哲が手合上覽有之候文昭公殊に御好被成御代初に四家基所の外に相原可碩坪田翫碩兩人新規被召出候右は寶永七年庚寅冬十二月琉球人來聘の節可碩儀十三歲にて虬人屋良里之子に先を爲置勝候に付御褒美の意味も有之且御好被成候故也翫碩も十三歲なり右兩人の家小十人にて今綿々相勤罷在也爰に奇異なる一事あり權現樣御誕生壬寅の年也薨御元和二年辰年觀智國師七十六歲にして御引導あり文昭公御誕生壬寅の年也薨御正德二年辰年祐天僧正七十六歲にて御引導也此同じきを以默して可尊崇也麗澤祕策本因坊算砂基道〓歌之事此軸は本因坊常本因坊家にて常に掛置一軸あり右は始祖算砂法印基道の戯れ歌也に掛る所なり石立は相手によりてうちかへよさて刧つもり時の見合爛柯堂基話卷之五本因坊丈策
爛柯堂基話卷之五番數を勝ほどあともしめて打て少も心ゆるしばしすな作儀法度堅く守らば其外も勘忍するは道のみちなり意雲利玄か事意雲は後土御門帝の時の人にして圍棊の良手也泉南に居住し可竹と號し又皓隱とも云ふ基利玄は日蓮宗の僧徒にして棊の上手也南の莊湊村の海邊に庵を結びて住居す寬永の頃には專ら棊の術を以て天下に名高く林門入が師也因云中將某溫故は北の莊妙國寺の境地法林坊に住して日蓮宗の僧侶也好て中將棊を善す一時後水尾法皇溫故を召て法橋宗知と勝負を決す卽ち溫故兩回勝を得たり和泉名所圖繪意雲老人者後土御門帝之世圍基之良手也結菴干泉南而居焉自號可竹又以皓隱扁其寢相國寺彥龍周興爲之說賛曰某局動隨幽澗竹白鬚道士竹間基竹樓宜園基子聲丁々然凡基之與竹相干涉也如此意雲基者而爲可竹之稱宜矣皓隱之義周興既演之古人稱棊曰坐隱於是彌得其實者耶右出干本朝遯史南總本能在於澁谷村春樓被贈所也名高き人を讀みたる狂歌之事武野燭談の作者少年の頃名高き人を狂歌に讀る事ありとて觀又や次郞觀世又朱心後に朱伯と云一淺か祖竹子孫雜知か事なりか子笛一暗源右衞門秋葉社家同社様金山據田西なりけり乞食の狂隱なり此一條時代可考事爛柯堂基話卷之六眞衡與秀武不和の事出羽の國住人〓原眞人武則奧州前九年の役に源將軍義家と倶に戰て均く功あり其忠戰により始て從五位下に敍し鎭守府將軍に補せられ貞任か跡を押領して奧六郡の主となり威勢奧羽二州を覆ひ富氏族萬人を潤しぬ其子荒川太郞武貞父が遺跡を相續嫡孫眞衡眞人か世に至て威勢又父祖に超たり去は兩國の一族等も時勢に隨ひ自ら家人被官の列に着く眞衡性質美にして能國事を行ひ朝威を辱す依之境の內穩にして干戈櫃に納まる然るに眞衡嗣子なかりければ海道小太郞成衡と云者を養て子となせり未年若くて妻を不具ければ眞衡成衡が妻を求けるに當國は皆從者の如くにて可然者もなかりし程に隣國に求ける爰に常陸國の住人多氣權守宗基と云猛者あり其女自ら源將軍の子を生める事あり去る永承の秋源將軍奧州下向の時宗基が館に止宿し給ひけるに年の程六七歲計の振分髪なるが生たち賢く父が後につきて手に餘る高杯を持て將軍を饗し參らせけり此くて朝敵追討ありて上洛の時も又宗基が館に逗留し給ひけり彼の少者はと尋ね給ひけるに今年は十八になりて最眞實に長ぬと申けるを密に召して假初の旅寢の枕を竝べ給ひけるに一人の女子をなん儲たり祖父宗基不斜歡で册て此女今年二十二になりけるを眞衡迎へとりて成衡に合せけり去れば婚姻の慶賀とて當國の郎等每日事をせさず奧陸の風俗地火爐ついでとなんいふ事をせり諸の厚味珍膳を聚るのみに非ず金銀絹布馬鞍何に不限家々の重寶を持運びて是を饗せり然るに出羽の國吉彥の秀武と云は故〓將軍武則が甥也智にて雙なき兵なり往年康平の合戰爛柯堂基話卷之六
爛柯堂基話卷之六にも三陣の陣頭となりて數度の高名して威を振ひしが今は年老て而も眞衡が威德父祖に勝れ一家の輩悉く從者の行跡をなしける程に秀武も同じく家人の內に催ふされて此事を營む樣々の事共したる中に朱の盤に金を嵬く積で自ら之を持ち庭上に歩出て雨打に跪て彼の盤を高らかに頭の上に捧てゐたりけり時節眞衡は五條の君と云奈良法師と圍棊を打て居たりしが痛く打入て曾て是を知らず稍久しく時も移りけり秀武は老の力竭て腕も痿へ最苦敷なりぬ心中に思ひけるは口惜しき事哉譬へば果報の勝劣にて主從の如き擧動をなす共我正敷一家なり而も年老たり髪を握り哺を吐は古の道也眞衡誠に道を知らば疾出て可逢に斯迄腰膝をかゞめ身を苦めて庭上に跪たるを久敷見入ざる事の情なさよ其身誇て我を侮るやすからぬ仕業也此上は思ひ斷ぬとて持ちたる金を抛散らし門外に走り出て數多昇せたる飯酒皆下部共に贈て唐櫃は門の前に棄置鎧一縮して馬引寄打乘郞黨共に物の具せさせて本國にぞ歸りける眞衡は圍某果て斯と聞大に怒り正なき者の所爲哉我斯と知て對面せざらんには無禮也我夢にも不知例へ少しの誤ありとも當時眞衡に對してかゝる擧動こそ奇怪也扨は秀武思ひ立事ありて眞衡に耻辱せさせむとの計ひなるべし得こそ其儘差置間敷ぞ兵を催し秀武を可攻迚軈て諸にふれけり眞衡軍勢を催すと聞へしかば六郡の內は云に不及譜代恩顧の輩雲霞の如くに集りけり日來穩なりし六郡上を下へと返しつゝ資財を山野に運び老弱は東西に逃迷ひ騒ぎ訇る事計なし昔し天竺の國王圍基に聞を誤て三學の沙門を誅し今奧州の眞衡は圍棊に禮を忘れて奧羽兩國の動亂を招く吁佚遊宴樂の禍を招く事甚し古今其害如是これ後三年の亂の根本となれり前太平記淺野長政黑田如水朝鮮にて圍棊の事文祿壬辰の役大明の和議僞によりて相破れ大閣激怒し給ひ晋州の城彌攻拔べき由にて肥前名護屋より淺野彈正少弼長政黑田如水軒孝高を朝鮮ヘ被遺兩人渡海して台命の旨爲可被相達三奉行を旅陣へ被招しかば石田增田長束早速參向ありける處に淺野黑田某を提て黑白を竝ふる最中にて急度上意を不被達奉行衆立腹して被歸ける彈正如水大に迷惑し斷りを以て重ねて被招しかども返答もなし兩人彼の陣に行向て上意を伸んとせらけれども三人ながら不被出合兩人すべき樣なく自餘の諸將へ台命の趣を申置き旅陣へ歸りける右無禮の次第三奉行よりありの儘に言上申されしかば太閣御立腹にて兩人は御勘當被成淺野を毛利黑田鍋島にお預ある鍋島家記按るに圍基に心を入れ事を誤ること不少と雖も諸將の中にても淺野黑田は深智の人也何か不慮のあるなるべし如水軒大量にして深謀遠慮あるを太閤に被忌自ら智を晦まして專ら身を保つ事を謀りしと聞ぬ淺野黑田朝鮮にて圍棊の事にんしてしが其後一書を見たらに排除にして頗る事情を得たりと謂ふべし肥前の名護屋より淺野長政黑田如水渡海し朝鮮の都在陣の諸將不殘東寧へ引取らせ太閣上意を可承との先走りの飛脚來りしかば字喜多秀家は御名代の大將なれば居ながら待請んも如何と途中迄出迎ひ三奉行の面々へは東寧に於て御口上申被渡よとて秀家淺野黑田同道し東寧へ引返しける字喜多は陣屋に入て休足ある然るに細川忠興と如水は相棊にて常に日本にても棊の朋友にて懇志故細川陣屋へ到り一應の口上濟直に黑田淺野共に忠興へ對し某は如何々々とありし故朝鮮へ來て一度も棊は不仕と申さるる故に長政如水などは渡海の船中にて打續け來り候某盤取寄よとて早々基盤來りしかば先づ淺野黑田殊の外棊好故何か打掛る忠興は扨々日本以來久振の參會なりと喜び圍某の半なる所へ大谷石田增田の三奉行只今此處へ到着し黑田淺野は何れにぞと尋々細川が陣所にて圍基ある由を聞て大切の上使に來
爛柯堂基話卷之六り我々方へは東寧迄引取木曾退治の上意を申談べき故取物も不取敢來る所圍棊どころにては有間敷と其身の好まざる事と奉行の權威を面に顯し直に案内にも不及細川陣所へ三奉行打連入來し所折節長政如水は大石を取るべし取られまじきと競合の最中打しこりたる故其處に誰が來るも知らず挨拶にも不及常に心易き同志基の上にては雜言をいゝて法外の交り何かと云爭ひて打しを細川も又基の友達なれば夫は是はと雙方へ會釋し三奉行の着座せしも知らず三人は共に基を打罷て上意を申聞て談合に及ベしと差控へし所一向會釋もなし無作法の趣奇怪に思ひし中にも生きぬ石田ぞそれなら殺せ成程生にくい石田捨ても增田又外にしてやる事があると麁言をのゝしりければ石田治部少輔は憤り何樣仔細ある事と思ひしかば大谷增田に目くばせして靜かに立て歸りけるを知らず能々打しこりたる棊好の衆とぞ見えにけり三奉行は憤りたる顏色にて立けるを細川が家臣斯と披露しければ黑田淺野細川も共に驚き是は〓〓と基を打やめ夫追掛よ御歸候へと追々人を走らせけれ共最早三奉行は宇喜多が陣所へ其途五六町も打過て見へしを使の者共追付右の口上を申御立歸り被下かし上意の趣申談すべしと申せしかば三奉行の中にも石田は聲を荒らげ申しけるは各方の棊は急なる義と相見え申定て太閤被仰付にて御打可有候へば緩々基を被打候へ此方共は木曾退治の評議急ぎ候間棊の相談には不及と欺き笑らひて立歸りさりしかば追々五度迄使を立し處邪佞なる三成なれば彼是と步行廻りて出合ざる樣にせしかば三人の衆中は是非に不及細川忠興の了簡にて奉行の者共權威を揮ひて我意に任せ候仕方殘念千萬也定て名護屋へ讒言の種と相成べしと被申所へ親々の某會にて三奉行方にて不屆の噂致由聞付て黑田甲斐守淺野左京太夫も驅來て細川へ對談し是非に不及事也此上は後日如何樣のことあり共三人一所に身上にかけ申合すべしと早々殘りの衆中へ上意可被仰渡と觸廻しければ第一番に福島正則加藤〓正蜂須賀鍋島入來りて夫より段々大小名上意承知の爲參入ありしが如水軒は〓正と懇意に申合され候事故〓正聞れよ能い手を盡し某にて身上を失ふと見え申と被申ければ〓正も其沙汰を聞ぬしかし隨分棊の中に侫人を打亡し能手を御工夫候へ〓正抔は棊は下手に御座候へ共如何なる上手の侫人出頭にて楯はつくまじと存候すはとも云はゞ此方より先を取るにしくはなしと同意の挨拶然れば大小名中へ上意の旨黑田如水淺野彈正申被渡各退出しける後迄も三奉行と對談なく是朝鮮陣中黑田甲斐守淺野左京大夫は親々の儀を三奉行が申しふれしを憤て何卒此意趣時節も可有歟と思案せられしかは朝鮮出會の每夜細川加藤を始として懇志の衆中には石田を憎み亡すべき相談ともありしや慶長五年石田が不運の初めとはなりけり其翌日石田方より書中を以兩人上使として到着の所數寄の基計打て御用向をば脇に致し乍去此方三奉行共取計ひ木曾退治油斷なくと申送りしかば太閤甚御腹立ありしかども黑田如水は筑前守盛り播州打入の節より如水も官兵衞さかりより信義を盡し手前の居城姫路を差上秀吉の居城とし其身は黑田村へ引籠不自由を被致し其節秀吉直筆に子々孫々雙方の儀見續べし少も秀吉方より疎略申まじとの證文まで被遣候程の筋目也大名中にても武功第三とは下らぬ人なれば何とも罪科申付け難し又淺野彈正は太閤の由緒甚しく重き人なれば未藤吉郎と申漸々士分になりて薪奉行を致し切米取の藤吉郞妻を求がたく尾州三州に至り筑阿彌が子供氏もなき匹夫といふ事を人々存ずる故藤吉郎を聟にせんと云ふ者なし然る所前田又左衞門利家犬松といゝて信長御小性藤吉不圖執心し兄弟の誓約被致けり然ば此犬松の在所前田村の近郷たりし淺野村の〓士又左衞門長勝と申は一村の長と云筋目宜敷其先祖は禁中北面の家にして朝廷に仕へし所承久三年後鳥羽院關東を亡し給はんと計ひ給ひしが鎌倉の武威盛んにして七月九日隱岐の國へ遷幸し奉り此節文武の輩悉く遠流せしは其數を知らず其節北面の中にても武衞た
爛柯堂基話卷之六りし源の長行尤御計略の節勅定を奉りし事度々也し故北條義時怒りて尾州淺野村へ流し畢ぬ此節より村中尊敬して子孫は淺野の號を名のり代々百姓に類せず然れ共仕官も不望して除地の村高三百石を以て人馬豐かに暮しけり此人先妻の腹に於侫といふ娘あり姿醜くして嫁義一向出來ず腹がはりは淺野彌兵衞長政とて今の彈正少弼なり然れば此利家長政とは緣者の故美ならず共緣組し玉へとて利家媒なり秀吉も詮方なく我にくるゝ女房近國になしと思ひければ醜女にても苦しからずとて呼迎ふとも其筋目あれば秀吉立身に隨ひ疎略なり難く又左衞門は念入たる生れなれば藤吉郞不行跡なれ共娘醜女なれば遣すべし永代疎略なく又彌兵衞方へも聊疎略有間敷證文を取り女房を迎へ取りし程の事也是に依て只今何樣の事あり共淺野家へ疎略ならず太閣御前にてお噂ありしは人間の好むまじきは基なり急用を忘るゝもの也と計被仰其頃彈正へも如水へも御懇志相替らず度々あて言被仰し故一入子息方石田を憎しとかや是を關ケ原記に朝鮮より初ると申し傳へしとかや以上扶桑三國誌按るに右の記實錄なるべし石田が侫好にして諸將の功を覆ひ隱し權威を揮ひし樣子武功は無之して諸將の上に立善類を殘害する事共諸將共平常憎みしも尤所謂あるべし豈朝鮮にて圍棊の日より怨恨發したるにはあるべからず吉村又右衞門棊によりて人を斬殺せし事福島左衞門大夫正則が臣吉村又右衞門一日傍輩が方へ見廻しに兩三輩寄合棊會のありしを又右衞門見物して居けるが亭主の方へ少し助言を加へしを相手心に掛て棊の事に武功の者助言御無用々々々抔とひたと痴言を云けるを又右衞門心に掛て其席終りて何も退きける節又右衞門は小便をする體にて彼相手を待合せ殘りの連は先へ返し彼者に詞をかけ士の武邊珍からぬ事也先程の事覺あるべしとて切掛難なく打とめ直に總門まで立出しが思付て又右衞門程の者が止めを刺さで退きけるよと後日の批判も如何なりと立戾り心靜かに止めをさし退ける彼の相手は其家中にて劔術の師範者なりしかば門弟中多く口々へ手分して追掛しかども出合ずして終に又衞門は退きぬとも又は比類なき武功の者故不追して逃せしともいへり此事正則歿後本多美濃守へ被招し前後明かにせず由井正雪か宅基會の事丸橋忠彌芝田三郞兵衞兩人正雪が宅に集り樣々の評議有之けるが先づ正雪申けるは段々謀反の基は相定り此上異論あるべからず只今次には一人なりとも味方を招き候事肝要也長曾我部は近來の大名其外諸家中の餘類定めて多かるべし此段思慮あられ候へといふに芝田卽硯引寄せ一通の廻文を認ける其文に云長曾我部秦の盛澄謹而申さく夫君父の仇には倶に天を戴かずと謂へり然るに我々幸なる哉紀州大納言賴宣公のお賴により義兵を擧げんとす爰に望みを企て事既に半に至る誠に人間木石にあらず君臣の義未だ地に墜ざれば忠の一字何ぞ休せん若忠義有之輩には竊に馳集り力を合せ譽れを殘すべし恩賞は事成就の後宜沙汰に及ぶべしとなり忠彌この書付を受取家來有竹八藏を使として土佐國へぞ遣はしける八藏は長曾我部の普代の者なれば四國の内爰かしこ尋ね廻り此の趣を相達す長曾我部の餘類三千人ありけるが取々評議して二千餘人は一味同心の義を言合追々江戶へ可能出旨をぞ返答しける偖又一時正雪忠彌に申けるは奧村八郞左衞門といふ者其氣質賢く勿論武術も勝れし者なれば入魂に申合せたく都て貴公が人に交り給ふ事只一遍の付合にして入魂薄し此以後何卒奧村を私宅へ同伴し給はれ是を謀るべしと云ふ之に依て忠彌は毎度奥村を誘引すれ共奧村は所存ありて容易に來らず其後正雪私宅にて基會を催し奧村殿御同道にて御出被成べく由を忠彌方へ申遣しける忠彌心得て正雪方よりの手紙を
爛柯堂基話卷之六持參して奧村を誘ひければ奧村も無據忠彌と同道にて正雪が宅へ赴けり正雪悅び種々馳走してさて棊に仕るべしと基盤に向ふ由井と奧村と互先にて打ちける忠彌は二目程强くして見物也互に入亂れ打ちし時正雪が石盤ざれば死ぬる所あり正雪如何に工夫しても此手見えず丸橋之を見兼て手拍子を打ち渡らば錦中や絕なんと謠の文句に寄て是を云ふに正雪其石を盤りて此石活たり奧村は溜息をつきて偖々渡りに船が來て難風を逃れ我等近來迷惑致すと囁きながら打居たるに奧村が石に切れる所あり此石を切らざれば正雪が負となるべき棊の模樣也正雪此手に曾て心付かざりければ丸橋堪へ兼て又手鼓を打ち鞍の前輪に押つけてと實盛が謠を調ひければ正雪其石を切て打仕舞見れば果して正雪が勝になりたり奧村は豫て此人々に交りては如何なる事が出來せんも計り難きことなれば何事にかゝこ付て義絕すべき下心ありければ是好時節と刀追取膝立直し大にせき込みし形勢にて丸橋をはつたと白眼み何れ慰とはいひながら再三物によそへての助言われ悟り知らざると思ふかや無禮の段許し難し返答によりて舌の根切てきり下んと勢ひこんでのゝしれば忠彌から〓〓と打笑ひ事々しき奧村かな何條汝に切らるゝからだのあるべきや今一言いうて見よ摑殺してくれんずると雙方互ひに惡口に及び既に危く見えければ正雪驚き中に飛入り雙方を引分け何も是は狂氣の沙汰也僅なる慰に如是口論こそ大人氣なしと漸々取鎭ければ奧村は早々座敷を立暇乞もせず眞黑になつて私宅へこそは歸りける正雪早々芝田を招き丸橋殿の短氣日比の器量と違ひ以ての外なる人體なり大望を企て人の大將たらん身としてかゝる心懸にては末々とも覺束なし丸橋殿の後見ならん者貴殿ならでは外になし何卒急度異見を加へ向後を嗜まるゝ樣にあらまほしと語りければ芝田點頭いて私宅へ歸り忠彌を呼て申しけるは昨日奧村との口論承り氣の毒千萬なり大望を心に企てながら斯る短慮の振舞抑先づ如何なる心ぞや韓信が市人の股をくゞり終に破楚の大元帥となりし例し常々口に談ずる所に非ずや此事を正雪我を招きて吳々の物語なり今既に我等五七人の方寸にて數千人の心を結ぶ一人事を破る時は數萬人の生靈の命を失ふに至る是中々假初の事に非ず此心今日屹度改るとあらずんば義約誓紙も引破り大望の願思ひ止るべしと涙を流して〓訓しければ忠彌も大に後悔し重々誤入候也正雪老が思召も貴殿が今日の御異見も肺腑に銘じて以後は屹度相愼み申すべしと早速に一紙の誓狀を相認め芝田に相渡しければ芝田大に悅び此趣正雪に告るに正雪も少しは心休りけり然れ共是より自然と交り絕え終に奧村第二番の訴人に出で隱謀露顯に及びけり按るに奧村が喧嘩に託して交を絕ちしは其機を察したるなり堀部安兵衞が事廣澤先生劍術を堀内源左衞門に學ぶ堀部父子同門中にて別て懇意也堀部彌兵衞實子あり被官の者を切此娘安兵害せんと欲して却て被官の爲に殺さる時に年十五父彌兵衞卽被官を殺す其後子なし娘一人あり衞に嫁す今に存命す年八十餘妙海といふ老尼なり其頃安兵衞高田の馬場にて伯父が助太刀して高名の聞え世に普し堀内門人となりて二三月の間の事なり依之彌兵衞養子にせんと望けれども不肯安兵衞他苗を續ぐ意なしと云然れ共彌兵衞頻に懇望してやまず堀内氏老先生も勸むれども安兵衞敢て不肯故に彌兵衞詮方なく君公内匠頭殿に申て曰安兵衞高田の馬場の事世上に隱れなし此者同門たるによりて聟養子にせんと云へども安兵衞他苗望なしとて不肯某養子するとも君の御用に立つべき者をこそ養子にすべき事なり願くは彼が苗字を以て聟養子となさしめ給へと申す內匠頭殿許し給ふ故此事を以て堀内氏竝安兵衞に告たり安兵衞曰如是深切にして君公
爛柯堂某話卷之六にも許蒙たるは我意に任せ難しとて之に應ず安兵衞自ら苗子を以居る事三年彌兵衞は大に歡び安兵衞に遇する事厚し安兵衞も堀内氏廣澤先生に謂て曰予養父の志に感ず故に養父の苗字を續べしと云此由を彌兵衞に〓ぐ彌兵衞大に悅むで君公に申す君公甚感ず依之堀部安兵衞と云安兵衞は越後長岡の產牧野侯の藩中より出たる人也東都に來りて立身せんと思ひ御旗本の長屋を借りて住す松平左京太夫殿藩中に伯父あり貸其世界分左京大夫殿星数教に圍棊の爭論より起りて高田馬場に於て打果さんと約し曉天に伯父安喰違なり後澁谷へ移る兵衞が宅に到りて我朋友と喧嘩に及び只今高田馬場に行なり汝に妻子の事を託すといふ安兵衞曰予壯年にしてかゝる事を聞何ぞや妻子にあづからんや妻子は外の親類に能にはからふべし早や行給へ我も共に行べしと湯漬を食ひ尻からげて伯父を先に立て行けり頓て高田の馬場へ到りて見れば敵人兄弟三伯父六人草履取一人都合四人なり安兵衞は伯父甥二人なり十餘歲敵方の曰當人の外助太刀無用と約し既に當人同志切結とひとしく敵の兄弟草履取三人刀を拔て掛る故安兵衞も刀を拔て敵の次男の左の小鬟より右の願を掛切さけたり同く掛る其弟をも同じ太刀に切倒す草履取後より安兵衞が腰をなぐる幸に身に當らず事果て後帶を解て見れば帶の結目切てありしと也三人を切倒し見れば事始し所より二十間程隔りしと也扨當人を見れば兩人手を負て兩人土手に寄掛りてありしを敵を引提て伯父の面前に來り敵を斯はからふと云て頓て首を打て見せたり伯父の手負を肩に掛けて退きたり高田の邊に諸侯の下屋敷と覺しき所の垣を破りて內に入て木小屋の內に伯父を入て置たる所に屋敷廻りの足輕來りて是を答む安兵衞次第を語る足輕聞屆て甲斐々々敷肯て曰手負深手なり活べからず自殺せしめて可なりといふ卽安兵衞伯父に告ぐ諾す故に伯父を介錯す足輕早桶を求め來りて死體を納め下屋敷の內に兩人して埋めたり賤者もかゝる情ありて義理に明かなる人もありけり扨足輕の住家に往て湯あみして飯を喫し最初の戰場に往て見るに田舎馬の出る頃なり時に六十餘の老人駕籠に乘て來りたり茶の縮緬の羽織に永樂通寶の紋付を着し死體を見て歎じて曰兄弟三人及奴僕一人同じく敵の爲に害せられ敵には手負もなしと見ゆるなり返す〓〓も殘念なりといふて落淚す此老人は正敷三人兄弟の親なるべし此件世に隱れなし故に彌兵衞も安兵衞を望たるなり按るに此記は實錄にして世俗傳へる所は小異あり元祿の頃まては尙武の風遺りて圍某の口論より事起て打果し四五人の生殺しに繫る事斯の如し可愼可戒杉本九十郞切腹の事加賀の國に杉本何某とて一人の微賤の士ありき翁其人を久敷相知しが其子九十郞と云者十五歲の時父は東へ行役しける其跡に年輩同じ程なる近隣の人の子と圍基の上にて口論しけるに九十郞怺へず刀を拔て相手を一太刀切しをかたへの人取さへけり扨其事廳に達して後相手の創療治さすべしとの事にて其間九十郞は官長の家に預り置しに聊か臆したる氣色露程もなく言語振舞落付たる中々年におはぬ樣に見えける日を經るに相手終に創にて果ければ九十郞も切腹するに議定しける程に其前夜主人名殘を惜しみつゝ酒肴色々用意してもてなしける九十郞母への文など認置て主人に委敷謝詞を述て此程附居たる家人へも夫々懇に暇乞して偖云けるは面々へ名殘も惜しく候へ共今宵は明る迄も語り度候へ共明日の切腹の時寐ふたくては如何と存じ候得者先へ臥り候へし面々は是にて緩々と酒すゝめられ候へとて奧に入て高鼾して寐ぬるを聞て跡に居たる人々感じ合けるとぞ又の日勤てよき程に起出て沐浴し衣服を改めつゝ用意心靜にして其後切腹の席へ出て檢使に一禮し心能切腹しぬ其有樣從容としてやすらかなりしは如何なる勇烈老功の士たりといふとも是には過ぎまじと見えしとぞ其場に有合し人々年を
爛柯堂基話卷之六經て後も語り出して源落さぬ者はなし此事起りし始に翁彼が父の許へ文やりて知らするとて九十郞たとへ切腹するに及びたりとも此程のおとなしさにては未練なることあるまじ其は心易く思ふべしと言遣はしけるに後に聞は父其文を人に見せ斯は言ひて來れどもわらはへに灸するに前は人にすかされて思ひの外に大人しく火を取りて向へば其きはになりて俄に泣出して前の言葉には似ぬぞかし我子も未だ年足らねば潔く切腹したるといふ便を聞く迄は心元なく侍るといひしとて古人いふ如く此父なくば此子あらじとなむ思ひ侍りきとて此事を今申出で侍るは九十郞が斯くばかり年にも似ずして健氣なるを世に聞傳ふる人もなくて果なんは餘り不便に候へば申す事にて侍る其上今翁を初め言論文字にて古人の眞似をして其實の顯るゝ時に至りて日頃のあらましと違ひありなんは是ぞ誠に童の灸にて侍るべし多年學問して儒者と云るゝ身にて彼の童蒙無知の九十郞の覺悟にさへ劣るべきことかはいと恥かしき心ならずや諸君も常に爰に察してよく〓〓省給ふべし駿臺雜話按るに九十郞が一朝の怒不堪命を捨し事可戒可惜可憐又翁が心を用ひ書遺し給へるありがたく感べ原甚四郞諸角助七圍棊に付口論竝信玄捌の事武田信玄天下の計に付十人の士大將を集十ヶ條の成敗の式目を定む土屋右衞門尉執筆にて書之しむ商議最中の處目附より申上るは只今御屋形百足の間に於て原甚四郞諸角助七喧嘩を仕出し雙方手負ひ引分申候尤末々の族に候はゞ晩程御耳に達すべきの所御當家歷々の衆に御座候へば宿老衆は御前詰なれば誰あつて取捌き難く候に付斯の如くと訴へたり信玄元來士を愛する御心深く殊に忠節の人々の子孫をば大切に被成候故先評定是迄なり屋形に於て詮議とて御座を立せ給ひけり斯て原諸角兩人口論の意趣吟味をば御舍弟逍遙軒御甥左馬介兩所へ被仰付尤聞屆られ了簡の調は穴山伊豆守入道梅雪齋と被仰付目付衆偖又一座の傍輩雙方の一族武者の間に於て吟味有之然るに原甚四郞は美濃守が次男にて組も御附被成騎馬三十五騎足輕百人被預三千貫の所領にて未だ若輩なる故物大將は不被仰付御使番にして百足の間へ相詰るは武田家にて古今例無之結構なる事と皆々羨みぬ是偏に親美濃守一代の働き十七歲より御奉公仕手疵を蒙る事五十三ヶ所御證文計三十八度頂戴せしは無雙の働き故なり强勢の荒者御陣の御供しあんだに乘て歸ること三十八度九死一生の深手を負ふと雖も平癒して少しも不忠の心無之如斯なる故美濃守總領をば御意を以て橫田備中守が聟に被仰今の橫田十郞兵衞なり嫡子を他家へとの御意は不計聞時は信玄御無理の樣なれども美濃守が心に十郞兵衞若年より漫行者にて〓訓しても手に付ず次男甚四郞を家督にして存念の趣連に御耳に達せし處十郞兵衞事親の心をはかり我氣に入らずば弟に繼すべし大小二腰差て渡らば唐迄も行くべきと云を聞し召流石大功の美濃守事嫡子其身また健者なるに他家へ遣はすべきは惜しと思召美濃守へ御直々に御所望其方男子多し橫田備中守娘ばかり持て男子なし信玄媒なりとて十郞兵衞其頃彥十郞と申たるを彥を我に得させよ我備中守へ遣し度しとの御意故流石に美濃守も默止難く不行跡の若輩者御用にも難立また橫田にも不孝に當り候はヾ美濃守一分までも相立ち難しと御斷申上けるを信玄御笑ひ被成左ればとよ其方より遣すにこそ信玄が貰ふて橫田に遣はすに何條左樣の所に相違あるべきやと直に支度被仰付橫田へ下さる其節橫田も原も未だ小身にて原美濃守は千五百貫橫田備中守は千二百貫たりしを彥十郞を遣はされしとて三百貫の御加恩あり彥十郞か聟に參る持參なりとの御下心實父方と格は同じ物大將知行も同じ方なれば彥十郞兄弟の挨拶もよく御祕藏の原橫田互に不足なく相勤れば畢竟弓矢の强みとの御工夫は實に名將なり兩家共に之を難有
爛柯堂基話卷之六奉存彌忠義心にそみけるも尤也諸角助七儀は豐後守一子にて父豊後守舊功の士大將と云殊更川中島五度目の戰に難儀の節討死して大功の御用に立し故是亦組殘らず騎馬百騎御預け被成知行四千三百貫若輩故未だ武功も重からず助七へ下されしは父豐後守への御懇意なり尤も役目は是も御使番被仰付武道鍛鍊の後に豐後守跡をも續候へとの御事也然れば此兩人常に心易く進退共に君忠外にも朋友の信義厚くして連百足と云はれし程の中にて百足の指物差て欠廻る故也然る所に當世原も諸角も某を好み打けり屋形にても其役々當番は一向何も仕らず加番の方は棊將某或は詩歌等をなぐさみ勝手次第にて然もいつとても當番加番の割合も原と諸角とは一ツ番割今日兩人は加番ゆゑ朝飯後より御屋形へ相詰百足の間にて互に基を打事數刻なりしが如何しけるや諸角助七五番まで續けて負たり六番目にも助七急いて打ける故か散々にて大石二ツに切られしが其言葉に原甚四郞やい助七士の打棊は切れず離れぬ樣に打て社此樣にきれ切られては首が落んと戯れしを諸角助七くわつとせき上げやあ甚四郞基の上にて石を切るとは違ふて其方抔に首を切らるゝ助七と思ふか手前の首の落ぬ用心せよと言返す原は元來美濃守がゆづりの力量もち兄十郞兵衞程にはあらず共拔群の力量なるゆへから〓〓打笑ひ兄弟同然なればこそ懇意にてなくば試に首捻切てなりとも見せふ其方如き者は刀は穢さぬと戯れ合しが實なるよと云ふより早く飛込で甚四郞を眞二つと打諸角が太刀をたわけ者と云ながら基盤片手に差上げ受止めたり去ながら諸角が差料業物にして基盤を半ば斬割て原甚四郞が手前へ斬付たり依て甚四郞は實己れは馬鹿者と太刀を奪ひ取らむと大手を擴げ追廻す百足の間の者共兼て中よき兩人の事なれば惡ざれするな〓〓と居ながら聲を掛る計なり其內原は三ヶ所薄手を負し故堪難く踏込んで助七を蹴倒し脇差を取助七起上り刀を拔て又切てかゝる故其內相番小山田八左衞門諏訪越中目附の原大隅各立寄り雙方を組留引分ての上御注進也原甚四郞儀は別て意趣は無之助七儀短氣と存候也拙者方より眞劍を以勝負は不仕候得共二ヶ所の疵は渠を踏倒して脇差を奪ひ取候節自然と疵付申候と神妙なる申分也殊更原が親類は大分廣し諸角は一向親類もなきにより武田御一門方も原をば少々最負心のある上申分も神妙なり諸角は短慮にして無禮なり先年喧嘩雨成敗の儀內藤修理吟味の上兎角無禮有之故喧嘩起り申ことなれば向後兩成敗には致さず不禮仕りて人の腹立樣に仕掛候者を御成敗との別ケ條新式目の通り諸角助七越度に極り御一門方目附中信玄公の御耳に立られ候所橫田十郞兵衞小姓中を以て原諸角兩人御吟味の筋に付申上たき旨有之と披露す各存寄にも諸角御成敗の儀を申受手に掛け打べきの心と申合ふ信玄御聞被成召出されける處橫田十郞兵衞申上るは此度原諸角の喧嘩御吟味歷々御一門方御名代の上は相違も無御座拙者など申上るは如何に御座候へとも私兄弟儀なれば見聞計は我心ながら武士道の本意に相背き申候故御耳へ相達し申候元來無禮の元は弟甚四郞に御座候其譯は武士たる者匹夫へ對してさへ雜言は申さぬ法に御座候處諸角助七に向て首を切らるゝな抔と申故其跡で心易ければ社さもなければ捻首に致し見すべき抔申候由助七にも直に承り一間列座の衆中にも承り合候所其申口出合申候然れば士へ對しての雜言此上あるべからず雜言無禮の左すれば起りは原甚四郞にて諸角助七に答は毛頭無御座候殊更助七は武士の理に叶ひ候て腰物を以打掛候所原甚四郞は一切腰物に手をかけず蹴たり踏だり致したるは私儀彼れが爲に血筋の兄にて候得共世間へ對し面目なき仕合に御座候先年赤口關右衞門寺川四郞左衞門喧嘩の節雙方共に胸ぐらを取ての仕方一切腰物これなきは武士の道不吟味との御意是ある段御尤に候實父美濃守存命にて罷在候はゞ外聞實義家名穢つる無念に存し切腹仕らせべき事に御座候且原甚四郞儀は數ならねども某を始め親數多く御座候諸角には一門とても無御座候此度御詮議不分明助爛柯堂基話卷之六
22.5.1g爛柯堂基話卷之六七越度に罷成候へば原甚四郎には親類多く最負ある故利運となり諸角助七は離れ者故不運の仕合と可申は必定なり然る時は一人立の士は忠義も薄く武士道もたるみ可申候時は武田の御弓矢の障り御陣先の弱みと奉存候間甚四郞儀を達て越度に被仰付諸角助七は其分に差置れ被下なば難有奉存べしとの願男道の意地を立て申上ける各々眉をひそめ居ける所に信玄横田十郞兵衞が顏をつら〓〓と御覽被成御涙をはら〓〓と流され暫時ありて被仰けるは誠に弓矢の道は不及申平生武士道の切なる事潔白に操正敷者には武運も自ら備る十郞兵衞先年上州和田城を上杉一萬餘の勢にて攻寄べき沙汰を聞て此方の幕下なれば加勢を乞ふ其節望で參る者なし其方一人手の者組共に三百計の人數にて加勢の籠城いたし日本無雙の荒者謙信を一鐵砲に追散し關東に名を上げ候は鐵砲の術計にあらず汝が武運天に叶ひたる故なりと存ぜしは今思ひ當りし也美濃守は氣に入らざりしが信玄見所ありて備中守方へ養子に遣しける處左程まで武士道の吟味を琢ひてこそ有けるよな汝が申所無據といへども一門中の詮議相濟て披露なれば旁遠慮も有なれば諸角助七改易を許し雙方同じ答に可申付とて原も諸角も組の者不殘召上られ外樣の寄合組に被仰付但し所領の儀は信玄存生の間は原美濃守諸角豐後守兩人へ忠節の禮義なれば召放し難しとて其儘被下置誠に御仁心の至りと各々彌忠節を心掛しも理りなり翌日橫田十郎兵衞を召出され向後武士道の吟味場に罷出奉行は勿論一門宿老共の捌といふとも不屆事候はゞ異見可仕以來は橫田武士の大目付たるべしとの御事也但し大目付の役名是より始る座席物頭の上座也近年橫田備中守相勤めらるゝ也按るに橫田が言上の旨深意あり實義あり可感事也

