爛柯堂棊話卷之一四へ傳來は何の時より傳來候哉分明に相知不申候小將棊は古來は王將之頭に醉象を置き左右の金將の頭に猛豹を竝べ置申候其外相替儀無御座候宇治大納言工夫にて醉象猛豹を除き候由夫より上手も出來將基翫來候由承及候唯今の唐の將棊は駒も圓く御座候由又駒を盤の筋目に竝べ申候由承及候左候得ば本朝の將棊と唐の將棊は相違申候と奉存候中將棊大將棊抔有之候得共私共家にては左のみ頓着不仕候儀故得と鍛練不仕候尤何時より始り候とも存不申候本朝に於て前々より將某翫ひ來候處就中信長公御時代より世に發向秀吉公以來將棊所被仰付自是手合等相定來申候以上此書付黑田大橋宗與未豐前守殿に伊藤宗看正月も差出申候大伊大橋藤橋宗宗宗與看壽未正月右之書付林門入家の舊記より抄出す按るに御尋之節御答に申上候通四隅へ互に石を置候ては其形に基きて容易に有之候故前々よりの上手共日本にては只今之通打來候との推察はよき考へなるべし然れ共何れの時代よりといふ事を知らす四十五代聖武帝天平七年吉備公傳來より高手名人其人を聞事なし五十四代仁明天皇承和五年遣唐使あり大使藤原常嗣副使小野篁なり伴勝雄といふ者善棊を以て唐使の員に充らる是唐文宗開成元年に當る紀夏井勝雄に圍某を學ぶ年十餘歲一二年の間に勝雄に超たりといふ五十五代文德帝の御時なり唐宣宗大中七年四月日本王子待詔顧師言と圍基の日鎭神頭といふ手にて王子負し事見えたれば其比は唐風にて打しと思はる僧圖珍智證大師文德天皇仁壽三年入唐は宣宗の大中七年に當る今年遣唐使はなき樣に覺えたり圓珍求法の爲めの入唐か王子も此時なるべし王子の圍棊に鎭神頭と云ふ手にて負けしとあれ共其手に誤あり今〓朝になりても其手を得る者なしと見えて徐星友か兼山堂棊譜にも鎭神頭を云へり王子其手を知らざるは遺憾の事なり別に其基を出して後學のために備ふ棊の傳來の事は博物志曰堯造園某丹朱善之象戯太平御覽云後周武帝所造也其臣王褒爲徑行基有日月星辰目又宋司馬溫公作象戯圖法有將士步卒馬車弩砲之象五雜爼云象戯相傳武王伐紂時之作日本の棊は吉備公前度の入唐の時傳來也元正天皇養老元年入唐聖武天皇天平七年歸朝象戯は後度の入唐の時傳來孝謙天皇天平勝寶四年入唐同六年に歸朝也其時の象戯は今の象戯に異り其後江帥是を發明ありしとなり是今の象戯なり江帥は六十八代後一條院御宇博學宏才の人にて大江匡房也貝原好古か和事始を見るに棊を吉備公傳來と云は俗說なりといへり其後六十代延喜の帝の御時寬蓮といふ者棊聖にて基式を獻せし由見え帝も好み給ひて寛蓮に二ツの御手合なりしよし某圖は傳はらず其基品を觀に由なし八十八代後深草帝の建長五年鎌倉松葉か谷にて日蓮上人と吉祥丸の某譜を見るにその頃迄も未唐風なり百七代正親町天皇天正の比より本因坊算砂利玄坊抔の上手共今の樣に打初しと見えたり其徵は永祿九年武田信玄と高坂彈正との基譜初めに勢子へ打追々勢子へ打しなり之によりて思ふに此頃より漸々今の樣に打習ひしとぞ思はるゝ吉備大臣傳吉備公諱は眞備本姓は下道朝臣父は右衞士少尉國勝其先吉備津彥よりいて世々備中の國に住す公幼より頴悟俊才稍長して學を好む初めて從八位下に叙す靈龜二年公遣唐使多治比縣守安倍仲丸玄昉僧正等爛柯堂基話卷之一