爛柯堂棊話卷之一と同じく入唐して留學受業凡十九年經史を〓究し旁兵法白家暦算衆藝通曉せざるはなし天平七年歸朝して齎し來る所の唐禮一百三十卷大衍曆經一卷大衍曆立成十二卷樂書要錄十卷及び種々の名器を獻す帝大に嘉し正六位を授け大學介に任し尋て中宮亮從五位上に累遷し改て右衞士督となり又從四位下春宮大夫に至り學士をかぬ禮記漢書を授給ふ恩寵殊に渥し改て吉備姓を賜ひ右京大夫に遷さる天平勝寶の始め故ありて筑前守に左降し俄に肥前守に遷り同二年入唐副使となり藤原〓河大伴古麿と同じく唐に行く玄宗皇帝公か才德を感賞有りて銀靑光祿大夫を授け給ふ同六年唐より歸るに及びて其船逆風に逢ひ薩摩益久島に漂着し紀州の牟漏崎と云ふ所より京に入り通議大夫に進み大宰大貳に除す春日部三關土師關成等に詔して公に就て孫武諸葛か兵法を受しむ公建議して筑前怡土城を築き西海道の節度使となる同八年公を召し東寺造の長官とす然れ共病ありて與らず同年藤原押勝反に及びて公を召入て其事を議せしむ因て從三位に叙す賊必奔る事を計り兵を分ち諸道を遮り官軍江州高島三尾崎にて合戰し果して其術に陷り押勝等敗軍して不日に誅せられ忽ち事平く是實に公の力なり爰に於て勳二等を授け參議兼中衞大將正三位に除す明年中納言を經て大納言に轉す又春宮の舊恩によりて擢て從二位右大臣に任す景雲の初め近江にて穀二千石を賜ひ帝公が第に御幸し給ふ又正二位に進み尋て稻十萬束を賜ふ同四年帝御不豫公に勅して中衞左右衞士府たらしむ帝崩す御嗣定らす公等文室淨三大市の皇子の中を立んとす永手良繼百川の大臣等策て光仁帝を立つ公是を歎す年老ひ疾身に纏ひ大職の任治むべからずとて頻に上書し給ふと雖も御許なし復骸骨を乞ふ寶龜二年致仕し同六年十月薨す壽八十三公大納言たる時二柱を壬生門の西に立て題其一曰被官司抑屈者須至此下〓訴其二曰百姓有寃枉者須至此下〓訴竝今彈正臺受理其訴以代登聞鼓云初公西海に在し時對馬に於て私資を以て新田を開發し島中飢饉の備とす本邦大寶中に初めて大學を立ると雖も其式未盡さず天平中公學生四百人をして五經三史明法算術音韻〓〓等の六道を自ら傳授し大學釋奠之儀其備らざる所を稽へ器物の足らざるを補ひ悉く其禮容を設け大に私財を出して是を營む本邦釋奠の禮是より備る又律令廿四條を刪正す延曆中詔して是を用らる甞て私〓類聚三十八篇を著せり實に日本學問の大祖といふべし按るに衆藝通曉せざるなしとあれば棊も此中にあるべしと思ひしに垢芥抄に私〓類聚三十八箇條の中二十六條に不可博奕事とあり此文によりて思へば公より傳來には非ず圍棊の事國史に見へたる始めの事凡そ物を翫べは志を喪ふ中にも圍棊を甚しとす其害昔猶今の如し大伴の宿禰小蟲中臣連東人と某を園みけるに失言しければ小蟲怒て劔を引て之を斬ける右繪本太平廣記藤井懶齋著按るに此事續日本紀に見えたり圍棊の事國史に見みし初め歟續日本紀天平十年七月丙子左兵庫少屬從八位下大伴宿禰小蟲以刀〓殺右兵庫頭外從五位下中臣宮處連東人初小蟲事長屋王頗豪恩遇至適與東人任此寮政事隙相共圍/語語及長屋王憤發而罵遂引劔而斫而殺之東人卽誣〓長屋王事之人也棊は博奕に入らざる事博奕は上古より禁也續日本紀文武天皇元年丁酉七月乙丑の條に曰く禁博戲遊手之徒其居停主人亦與居同罪云々○日本紀略延喜五年七月二十八日の條に曰く今日內舍人大野夏眞配流又捕博戯之輩云々○雙六樗蒲を博戯として罪に行はるゝ事捕亡令雜律及び天平勝寶六年の官符に見えたり角方を用ふるは都