爛柯堂棊話卷之一て雙六に屬す故に延喜彈正式曰雙六者不論高下二切禁斷云僧尼令を見れば僧尼作音樂及博戯一蒲雙謂樽類也耐六〓て百日苦使基琴不在制限」とのせられたり某は博奕に入らずと見えたり遣唐使の始りの事三十五代舒明天皇二年始置遣唐使實當太宗貞觀四年吾邦聘唐之始也博奕天武天皇白鳳十四年天皇御大安殿喚公卿等有博奕と見えたり然れ共其賭物を誠しむるが故に憲章其咎を設く專ら禁ずべき事にこそ日本漢に通ずる始めの事予考ふるに日本漢に通ずるは十一代垂仁天皇八十六年丁巳なり後漢光武卽位五十四年に當る光武紀曰神功皇后元年よりは中元二年春正月辛未東夷倭奴國王遣使奉獻百三十一年己前なり其後十五代神功皇后魏に通ず三十四代推古天皇の御時隋に通ず唐太宗高宗の頃は屢入唐の者ありし樣ずるり等に擧ゞくすは代結純査宗末本產在不斷國會社群論會御地方有三巴汝池上巴汝中巴汝下巴汝地方三百里土地人民豐饒與新羅國相爭彼此不能攝治兵戈相尋学即和賣諸事業的神聖如君高國金會美食欲影器令人過ぎ金高國分析ヒ〓鹽乘津彥命頭上有贅三岐如松力過衆人性亦勇悍也天皇乃遣之鹽乘津彥命奉勅鎭守此外國朝貢之始也其後十五代神功皇后三韓を征伐十六代應神帝十五年甲辰阿直岐王仁等を徵すそれより百濟高麗の者共不斷來りし樣子殊に三十一代敏達天皇の御代には王辰爾といへる多能才智の者など來朝しつれば種々此文は棊にはあつからず唐に通せししる代ぬに考の事を傳へしも知るべからず崇神帝より聖武帝の天平中迄は星霜八百餘年なり棊の事國事にあづからず且史といふものもなき世なりしかば知れざるなるべし因て思ふに基は韓より傳へたるべし辨正法師が事七十本朝高僧傳二云和州大安寺沙彌辨正姓秦氏初以文學仕朝俄厭世故入大安寺剃髮出家勤探經願性滑稽善談論大寶中入唐玄宗皇帝在潜龍時屢召圍棊留學垂三十年請益頗多有思〓詩曰日邊瞻日本雲裏望雲端遠遊勞遠國長恨苦長安開元庚午夏駕舶歸國天平六年冬十月聖武皇帝勅僧正不記其所終矣正在俗時有子二人朝慶朝元慶者早死元者天平中入唐以文才見天子拜入唐判官懷風藻云辨正法師及朝慶在唐死元歸本朝仕至大夫按るに懷風藻は淡海三船が著述なり大友皇子か后孫と云へり辨正が事吉備公已前より棊ある明證なり日本王子唐にて圍棊の事唐宣宗大中七年四月日本王子來朝寶器音樂を送る帝百戯珍饌を設けて之を禮し玉ふ王子能く圍棊を爲す帝待詔顧師言に勅して王子と對手せしむ楸玉基局冷暖玉棊子を出すと云ふ本國の東三萬里に集眞島あり島上に凝露臺あり臺上に手譚池あり池中玉子を出す制度によらず自然に黑白分明なり冬は暖にして夏は冷なり故に之を冷暖玉と云ふ楸木是を琢て基局となす光潔にして鑑むべし師言王子と圍某三十三手打たるに勝負未だ決せず師言君命を辱しめん事を恐れて手に汗し思を凝して打ちけり此手を鎭神頭と云ふ是なり王子目を瞪し臂を縮めて己に伏して勝たず王子旅館に歸りて鴻臚に話て曰く師言は第爛柯堂棊話卷之一