爛柯堂基話卷之一一〇幾手ぞ鴻臚詐り答て曰く第三手なり師言實は國手と稱す王子曰く願は第一の者と手合せん曰く王子第三の者に勝得て第二の者に對し第二の者に勝得て而後に第一の者に對すべし今始めに第一の者に手合を望まるそれ得べけんやと云ふ王子局を掩て嘆じて曰く小國の第一大國の第三に及ばずと信なる哉と今好事の者顧師言が三十三下鎭神頭圖あり出杜陽雜編按るに鎭神頭と云ふ手玄々基經に圖あり然れ共誤あり王子是を知らずして負けしは遺憾の事なり〓朝の今に至りても此手を見出す者なきと見へて徐氏兼山堂奕譜を觀るに鎭神頭をいへり別に其圖を出して後學の爲に備ふべし冷暖玉唐山の書に出たる手譚池は豐後國佐賀關の白濱黑濱を云ふ今按るに手譚池は豐後に非ず肥前天草にありと云ふ然れ共南谿子が西遊記を見るに唐の玄宗皇帝の時日本より黑白自然の基石を送る其石冬は暖にして夏は冷なり故に冷暖玉と云ふ日本に手譚池あり其池中に集眞島あり其島上に凝霞臺あり此邊皆冷暖玉なり帝も奇代の珍寶なりとて甚だ之を愛し玉ふと云ふ此事八荒譯史等其外唐山の書籍に多く見えたり尋るに豐後に其所あり佐賀關より東南の方へ入る山路を經て朗なる所に出たり遙に向ふの山の麓にいと〓らかに靑み渡りて見ゆるは入海なり海に沿うて漁村あり磯馴れし小松の間に漁夫の家檐を竝べてあり行かふ人は豆の如く繫ける船は木葉に似たり暫く之に對すれば實に畫中にある心地して人間の世界に非ずそれより山を下れば黑の濱白の濱といふ所ありて山二ツ三ツ隔てたり白きは雪の如く黑きは漆の如く海邊皆此の如くにして異なる色を交へず海底迄も是の如くにて白の濱は潮迄も白き樣に見え黑の濱は黑み渡りて掘穿ちても沙土なし其〓らかなる事譬ふるに物なし唐山の書に手譚池と言國民大學省立法科學學學科學學學國と大、へるは此入海をいふなるべし集眞島といへるは出崎の山を云ふなるべし凝霞臺は出崎の山の頂に肥後候より異國賊船の遠見に置れたる番所あり渺漫たる大海に突出て高く聳えたる山の頂に建たるは實に凝霞臺といひつべし按るに南谿子西遊の日自ら其地をふみし事なれば相違なし肥前天草にありと云ふは非なるべし立宗三百二事文類聚入四十皇帝の時と云ふは誤なるか冷暖玉の事韻府群玉杜陽雜編太平廣記十ス書言故事大全港の月令廣義玉海四〓百等の書に見えたり然るに大中年中日本王子來朝待詔顧師言と圍基の事を載す諸八書皆大中中とのみ記す唯玉海に曰く唐宣宗大中七年四月とあり是にて考ふるに文德天皇仁壽三年圓仁證號に當る此年僧圓珍入唐の事見えたれば王子も此時なるべし慈覺大師威子天成子也全新兵制日本風土記曰園某子非造成者乃本國沿海之傍而有生成之石子儼如做成精緻名曰威子黑子出養那智三卷書此處へ追加すべし難知久山沿海之處白子出大隅山海傍皆隅州所屬之地也譚池音相近松下見林異稱日本傳因に云ふ予が同僚安井仙知が話に冷暖玉といふ由にて西國方の門弟より右の黑白の棊石を贈りし者ありけるが粗質にて下品の物なりと云へり果して其物なるや日本にて棊石の名產は紀州那智の濱に產する黑石を絕品とす近年は甲州雨端と云ふ所より黑石を出す然れ共那智より出づる者よりは大に劣れり白子に用ふる貝は常陸國より出る蛤といへども外によき貝を生ずる所ありと云へり其後弘化の末年基盤棊子製作する者に尋ねしに三河白と昔より云ひ來れ共近頃日向大隅より出る其絕品の由一ツ具にて三子出來候所端にて製候基子も價三分位に候と申き爛柯堂棊話卷之一幾氏皇が智は仁和入に其美味佳餚 自己帶來 美味