爛柯堂基話卷之一唐石の事唐石と稱して西土より渡り來るものあり陶器に類したる物なり其基子の形吾邦の饅頭といふ菓子の形に相似たり聞く西土にて圍基の時思ひ不定の間は上の圓き方を覆し置き愈思ひ定る後に又圓き方を上に爲し而る後に敵手又前の如くして互に思案するといへり妄說なるべし然らざれば極めて下手の所爲といふべし燒棊の法の事滇南皆作棊子而以永昌爲第一盖水土之別云燒棊之法以黑鉛七十斤紫石英三十斤硝石百二十斤爲一料可得基子三十副然費工本巳三十六七兩矣其以白如蛋靑黑如鴉靑爲上云々朝鮮國棊の事唐玄宗開元十六年遣 賛善太夫刑壔弔祭前王初帝謂瑞日新羅號爲君子國頗書記宜演經義使知大國儒〓之盛又以國人善基詔以參軍楊季鷹爲副、璹到國獻道德經按るに五十四代仁明天皇承和五年遣唐使あり唐文宗開成元年に當る藤原常嗣大使たり小野篁次使たり此時伴勝雄といふ者奕棊を善くするを以て唐使の員に備る棊師を以ての故なり玄宗皇帝楊季鷹を副とする意と同日の談なり朝鮮王以伊飡信忠爲中侍初王在潜邸甞與信忠圍碁於柏下謂不相負有如此柏未幾卽位錄功臣而遺信忠信忠作歌貼柏々忽枯王怪使審之得歌大驚召賜爵柏乃蘇高句麗王巨璉自將攻百濟殺其王餘慶初浮屠道琳應募僞得罪亡入百濟王好基琳曰臣頗入妙王召與棊果國手遂信眠之琳乃說王葺城郭修宮室蒸土築城作石椰葬父骨倉廩虛竭人民困窮琳宋元徽逃還〓之麗王伐百濟圍王都王死於兵三十年琉球圍棊の事張學禮錄士大夫恒好基僧院輙以奕供客有倦意則授以枕々如小文具中藏三四層人各枕其一徐葆光錄基局高尺許脚三四寸面厚七八寸極堅重黑子磨 煮石爲之白子磨螺蛤頂骨爲之人皆善某琉球謂之梧基下時不用四角黑白勢子局終數空眼多少不數實子也亦有象棋一志嗨按るに基下す時四角の星へ黑白の勢子を用ゐずとは互に如圖置いて打初るなり勢子とは星をいふなり右の通にては其形に基き容易なれば前々よりの上手の者共日本にては只今の通に打來ことゝ思はる異國にては打終り作る折石を取替る由承及べり然れ共確かには知らざるに局終數空眼多少不數實子也といふ文によりて知り得たり地は地にて數へ濱は濱にて互に合せ數へることと見えたり勝負のことを贏輸と云ひ餘る出すの義にて雙六と同意なり溢籌と云ふは我か中押のことなりと思ふべし棊の事古く見えたる事日本史に和氣仲世年十九擧文章生性至孝奉公忠勤爲人聰敏質朴不留意于雜藝唯好圍基後大學〓精不輟〓丸之子也延喜四年九月二十四日右少辨〓貫寬蓮法師を召して園棊を打せられけり寬蓮勝て賭物に出されたりける唐綾四反賜はりけり聖代にもか樣の勝負禁なかりけるにこそ棊勢法師の事同じ御時基勢法師御前にて圍棊を仕りて銀の笙を賜はりてけり生涯の面目に思ひて死しける時は棺に爛柯堂基話卷之一