爛柯堂棊話卷之一內府秀吉公一時御話に藝能は人の位によりて入る事と入らぬ事あり織田常眞信雄は茶の湯歌道謠舞吹彈盤上の遊凡天下に雙びなく侍れ共武道に於ては信長公の切て捨て給ひし爪の先程もなく家康は華奢風流の諸藝は不調法なれ共武道の達人にて國民を治る事は吾朝は云ふに不及異國にも稀なるべし是も萬能一心萬藝一職に替へ難しと云ふなりと宣ひしとぞ本能寺にて圍棊の事天正十年信長公光秀が毛利征伐援兵に赴く武者押しをし給んとて江州安土より御登京都本能寺に御座あり六月朔日本因坊與利玄坊の圍棊を御覽あるに其の棊に三刧といふもの出來て止む拜見の衆奇異の事に思ひける子の刻過ぐる頃兩僧暇給りて半里許り行に金鼓の聲起るを聞き驚きしが是光秀が謀反にして本能寺を圍むにてぞありける後に圍棊の事を思ひ出て前兆といふことも有もの哉と皆云ひあへりとぞ其時の棊譜なりとて今も傳へたり此の基を思ひ見るに利玄が隅の石を取らるゝを見損じたる本因坊が布置手配りの樣子是亦前兆とも云べきか其日の基は別に基譜中に載ぬ此時神祖は泉州堺の妙國寺にまし〓〓けり茶屋四郞次郞本多忠勝に就て變を告ぐ神君は和尙と基を圍み給ひ忠勝次の間へ奉請委細を述ぶ神君靜に元の御座に返らせ玉ひ却を爭ひ給ひて基畢り御茶を被獻ければ茶碗を御覽被成名をお尋ゆゑ勝山と和尙申上ければ武將には目出度名なりと仰られ御所望急用事の由にて直に御發駕あり實に名將の器度自然暗合可奉感事也近三切の基稀には出る事ある者なり今證據にこゝに一局基譜を出す此遺譜は春碩と快山との圍基なり來塾弟山來椿平と高鹽有二が圍棊に出たり此譜も載べし仙洞御所にて平賀朝雅圍棊の事北條時政が後妻牧の方が生し娘の聟に武藏守朝雅といふ者ありけり武勇勝れたるにより京都守護として在京せり牧の方が奸謀にて朝雅に關東將軍の職を續せんと思はれたり其聞え隱れなかりければ二位尼大に驚き給ひ和田三浦結城天野長沼等を遣はして將軍實朝を相模守義時が第へ迎られける時政が竊に集めし勇士等悉く相州が方に集りて將軍を守護す時政思ふ旨ありけるにや俄に剃髮して執事を止めて籠居せらる諸臣相模守が館へ參りて商議あり朝雅其儘あらんには叛逆を起して京鎌倉靜かなるべからず早く誅戮せば太平の基ひなるべしとて使者を京都へ遣はし朝雅を可誅よし在京の御家人等に被仰付たり依之京都の武士佐々木廣綱同高重後藤基〓以下七百餘騎にて朝雅が六角洞院の家に押寄たり朝雅は折節仙洞に候し圍基の會に交て退出せず小舍人童走り來てかう〓〓と告たりける朝雅更に驚き遽ず色にも出さず元の座へ返り居て棊の果たりける目算をしめ石を收めて後關東より朝雅を誅罸の使を上せられ軍兵押寄候と申來て候早く身の暇を賜はるべしと仙洞へ奏聞し馬に打乘り六角の家に歸りければ郞徒出向ふて防ぎ戰ふたり朝雅面も振ず寄手の中を駈通り内に入て鎧を着し打て出で四角八面追散し從者皆打れしかば只一騎落て行く東軍等追掛れども物ともせず松阪の邊まで行けるを金持三郞廣親佐々木三郞兵衞盛綱等慕ひ行け共追留る人もなし山内六郞通基其時は未だ持壽丸といひしが聞ゆる强弓にて近く寄て朝雅が首の骨を篦深に討込て一矢なれ共痛手にて馬より眞倒まに落てけるを押へて首をぞ取にける按るに朝雅が讒死西土の王景文が事に相似たり劉宋の明帝王景文に死を賜ふ勅使到るの夜景文江州にありて客と基を圍み居たりけるが勅書を見終爛柯堂棊話卷之一