爛柯堂基話卷之二御耽被遊候と見わたり因に云ふ林門入が父は本國伊賀にて松屋彌左衞門と云て鐵砲鍛冶也今江戶鐵砲町にて鐵砲御用相勤御扶持百五十俵被下置松屋鐵五郞といふ是林門入が弟の家なり天正十八年關東御入國の時より御供し江戶住也松屋が由〓書に委ければ爰に略す赤がり惣八が子と云ふは誤なり然れ共昔より由緒有之にや近來迄同居なり今松屋鐵五郞が姉は惣八が女なり胝惚八は鐵砲町の草分名主なり惣八が苗字異なる事と思ひしに是は或時泉州境にて鐵砲鍛冶家業日々に增て繁昌仕候と申上候へばひゞに增し候はあかゞりなり今より紙と呼候へと權現樣の御滑稽に御附被成候苗字なりと云ふ松屋彌左衞門は居宅の庭中に松樹の大なるありけるに因て其所の者松屋々々と呼しとなり兩人共に堺にありて年來鐵砲を鑄たる故に惣八が子と誤りしにや此頃泉南湊邊に庵を結び利玄坊と云ふ日蓮宗の僧あり天禀の圍基の良手にて其名天下に高し門入は同所近邊に住しける故利玄に隨ひ棊を學びし也門入童名は門三郎といひしなり本因坊が弟子には非ず此事は林家の口碑にも傳へ同職共の家にても慥に知る所也新刀の名鍛冶虎徹と名を齊敷せし繁慶は胝惣八なりと云ふ說あれ共是は時代相違せりと云ひし人あり猶可尋繁慶は寬文延寶時代の者なりと云ふ慶長十七年棊將基の衆へ御扶持被下候人數の中に門入が名無之是御譜代にて其以前より被召出し明證也但三十石〓に十人扶持被下置候所十人扶持今は無之申傳へありと雖慥なる事は不知なり門入が弟の家今鐵砲鍛冶松屋鐵五郎が書上候由〓書にて十人扶持有之也堺名產金紗元和年中唐人當津に來りて松屋錢屋と云ふ兩人に金紗の織樣を相傳してより今に織出せり近代に及んでも昔の織物世上に散在して松屋裁錢屋裁とて持弄す也按るに松屋彌左衞門も此親族ならん歟源氏物語圍棊の事源氏物語論論ふ筆をとる道と基打こと社あやしうたましゐの程見ゆるといへり按るに紫式部深く感ずる事ありて譽し言なり豈筆と某を善する者の譽れに非ずや爰に是を兼たる人あり夏井是なり五十四代仁明天皇承和五年遣唐使あり唐の文宗の開成元年に當る藤原常嗣大使たり小野篁次使たり篁途中より病ありて歸り文を作りて常嗣を議りしを以て篁隱岐國に流されたり此時僧圓仁も求法のため同船す伴勝雄といふ者奕基を善するを以て唐使の員に備る棊師を以ての故なり夏井棊を勝雄に學たり年十餘歲一二年の間に勝雄に越たり紀夏井は左京の人美濃守善岑が第三の子なり眉目よくして身丈六尺三寸性溫和にして幼稚より才思あり承和の初年隸書を能するを以て詔して文堂に召して參議篁に就て筆を用ふる法を受く篁嘆じて曰紀三郞は眞に書の聖と云べしと也文德天皇卽位ありて後詔ありて徵して見給ふに夏井が衣服粗にして見苦し左右の人皆是を笑ふ帝曰く是疲駿なり汝等の知る所に非ずと遂に召して寵あり帝は夏井が忠誠〓貧なるを珍重し給ひ頻に昇進す文德天皇崩し給ふの後讃岐守になり政化大に行れ吏民安らかに喜ぶ任滿て歸らんとするに百姓相卒ひて禁闕に詣りて國に止めむ事を乞ふ依之更に又二年を留む年貢充滿して大藏を造る事總て四十字國を去に及て吏民別を送る者甚多し贈物も又多し夏井一ツも受る事なく都に歸りて後米穀玩好の物を以て其家に賜るに夏井唯紙筆を留て其餘を返す貞觀七年肥後守に任ず其母石川氏聞て哭す其故を問ふ答て曰ふ吾聞く肥後の風俗國宰至て〓ければ其身以不全我子其終へさらんか異母の子豐城あり夏井其放誕なるを以て屢折檻を加ふ豐城苦んで遂に身爛柯堂基話卷之二