爛柯堂棊話卷之二右抄錄は御書物奉行鈴木岩次郞殿と古賀小太郞殿と余が瀧の川寓居ヘ被訪候日被相贈候鈴木氏が厚意也葢曆至元郭守敬得其七分西法入中國得其九僅有火星半度之差譬猶園某者實高古人四子豈非今有勝古處閻若據古文疏證右伺庵古賀先生抄錄被贈所也甲州家臣春日源五郞之事甲州武田家の名臣春日源五郞天文廿一年彈正と改名弘治二郞信玄信州伊奈所に攻城の時高坂入道が名跡に被成此時高坂彈正忠昌と名乘る永祿九年正月十三日武田信玄を大僧正に被成下比叡山明王院の阿閣梨綸旨を捧て甲府に下着ありしかば信玄恐悅不斜是三條左中將執し申主上正親町天皇より被成下所なり此春は御歡のため惠林寺長禪寺を初め寺々へ信玄を請待をぞしたりける一向宗長遠寺といふも見へたり謙信が信玄へ和平の使長遠寺を以て被申送晴信入道出家し給ひしは天文廿年二月十二日也德榮軒と號し道號は機山法名は信玄とぞ付給ひける此時法體被仰付面々には原美濃守入道は〓巖山本勘助は道鬼齋小畑山城守は日意長坂左衞門尉は釣閑齋眞田彈正は一德齋とぞ號しける按るに永祿九年よりは十五六年前に改名なり武田大膳大夫晴信兼信濃守春日源五郞圍棊の譜ヘ書入べし松平康直失言を怒て打果したる事甲州の名臣依田右衞門尉信蕃が子修理太夫康國が弟松平右衞門太夫康直家を續康國上州長根にて陣歿嗣子なければなり神祖關東へ移らせられし時上州藤岡の地三萬石領す康國が妻に添ふ一時御家人の中にて康直と某を圍みて負し人の我は圍棊には負るとも兄の妻を我妻にはすまじきものをと云しかばこらへず打果して逃去りぬ其後結城殿賓客の樣にして召し置れぬ祿七千石を賜ふと云ふ結城殿とは神祖の御子三河守秀康公の事也小花和太兵衞が事安藤右京進家來小花和玄蕃が子太兵衞次男故奉公稼の爲め江戶に出て母方の從弟屋代越中守忠照にかかりて在けるが圍基を好み一日廣間の帳附石川惣右衞門といふ者と小書院にて某を始め太兵衞續て三番勝四番目を打掛る處へ忠照が用人松井淺右衞門といふ者通り掛りて立ながら惣右衞門に助言す太兵衞仰向て淺右衞門其許は主の口眞似も仕る者か士の作法を取失ひたるや助言申さば下に居て申されよといふ太兵衞口が過ぎ候控へられよといひながら行かんとせしを飛退りて淺右衞門を拔打にする橫腹より右の高股まで切て落し餘る太刀某盤の角三寸計り切て落す惣右衞門驚き脇差を拔かんとする太兵衞莞爾と笑ひて惣右衞門迷ふまじ我は此家の一族なれば逃走る心底なしと云ふ此音に詰合の輩七八人馳付けて太兵衞を取捲く太兵衞少しも騒がず脇差を投出し此事を越中守殿へ被申上よと云ふ越中守殿次の間まで被出しが太兵衞手柄々々とて手を引で居間へ同道也家人石川右近森武太夫を呼て相談ありて室賀甚四郞忠政は忠照弟なれば呼寄此事を語りて太兵衞は何卒助けたき事也と相談ありけれ共喧嘩兩成敗の掟なれば太兵衞切腹に極りて越中守が菩提所貝塚靑松寺へ遣す今度の手抦眼前なれ共上を憚る上は是非なし切腹被致よと涙を流して申さるゝ太兵衞手を仕へ御深切難有實不慮の事にて御厄介かけ候段無面目候と禮を述て乘物へ移る石川右近森武太夫室賀喜助結綿與左衞門神取十郞左衞門等組の