爛柯堂基話卷之三爛柯堂基話卷之三圍棊傳來考日本の西土に通せしは三十四代推古天皇の御時厩戶皇子攝政の日犬上御田鋤を隋へ遣し彼の土の式を尋ねて冠色を定め位階を定め給ふ此時も又群藝を學ぶにいとまあらじ三十五代舒明天皇二年始置遣唐使實當唐太宗之貞觀四年吾邦聘唐之始也三十七代孝德天皇白雉四年遣唐使あり唐の高宗の永徽四年にあたる此時道昭定惠二人も同船して入唐求法の爲なり定惠は天武帝の白鳳七年始めて法相宗を傳へて歸朝す在唐凡二十五年也思ふに此の兩僧など佛學の外傳へ來りしも知るべからず定惠は多武峰の開山なり元明帝の和銅七年六月二十五日寂す大織冠鎌足の長子なり三十八代齊明天皇二年西藩百濟の亂を援ひ給ふに新羅唐に內附して援兵を乞ひしにより高宗より援兵來り戰に及ぶ故に此間入唐の者絕えたり同五年勅使入唐坂合石布津守等を遣はし初て唐と和平す是より又入唐の者ありしなり依て思ふに棊は已前より傳りてありても某道未だ開けざりしと見えたり吉備公が歸朝ありてよりは某譜口訣等もありて上達せしものならんかし吉備公が在唐は立宗の時なれば高手の者ありし時也玄々棊經の序に曰く張說李泌善く其の理を論ず他の以て及ばざる所なりと云へり日本の圍基吉備公已前よりある事は辨正が一事にても明らかなり權中納言匡房の事匡房はいとけなき時より人にすぐれて才智あり四歲のとき始て書を讀ならひ八歲にして史記漢書をよみ通し十一歲にて詩を作られたり其事は父の成衡朝臣に具せられて土御門大臣の御もとに參りて此春より詩を作りさふらふよし成衡申されけるに大臣疑しく思召て雪裏春松貞と云ふ題を出して詩をつくらしめ給ふに抄物切韻なども持合せられざるに筆をそめてやかて書て奉られければ大臣まことに優れたる事なりとて此詩を持て參內し給ひ帝の御覽に備へられければ叡感ありて學問料を賜はれりこれより名譽日々にまして盛に人に賞せられぬ其頃關白賴通公宇治の平等院を建給はんとて權大納言源師房卿とゝもに宇治にゆきて造營の地形の事なと示し合せらるゝに四足の大門を北向に建る例古しへに有ける事にやと師房に問給ひけるに師房其例を覺悟せられざりければ賴通公へ申さるゝは其例いまた覺悟致し候はず大江の成衡が子江の冠者いまだ無官にてさふらへと下官が車の後に乘せて參り侍り彼のものはよく故事をおぼへ居候まゝ試みに召出して問侍らむとて匡房にこの由を申されければ匡房謹て答へられけるは天竺には那蘭寺戒賢論師の住處震旦には西明寺圓淵法師の道場日本には六波羅蜜寺空也上人の建立いづれも寺門北に向ひ候と申されければ賴通公大に其强記を歎賞せられたり匡房其より文章得業生に補せられ對策及第せられけるみづから才を賴みて世を憤り迹を山林に晦まさむと思はれけるを知りて權中納言經信これを諭して曰く汝命世の才を懷きながら何ぞ自ら其身を愛せずして俄に隱遁せむとする哉とて大に諫められしかば此異見を用ひて隱遁せんとするのこゝろをやめられけりそれより後三條帝白河帝堀河帝三朝につかへて官位昇進せられけるに承曆年中高麗國より日本の名醫丹波雅忠を請ける時匡房をして高麗の返牒をかゝしめられけるに其文の中に雙魚難達鳳池之浪扁鵲豈入鷄林之雲と云ふ句あり此句を人々聞傳へて愛てのゝしりけるが其後彼の國の商人太宰府へ來りしが此句を紳に爛柯堂基話卷之三