爛柯堂基話卷之三書てありけるとぞ扨此大江家は先祖音人卿已來代々博識の人多かりしが此卿の世に至りて朝庭の故實とすべき書を編集せられけり卽今の世に傅はれる江家次第二十卷これなりこの江家の書籍は古しへより度々の火災に燒ざりしが匡房卿二條高倉にくらをたてゝ書籍ともを入置れけるを或人都のうちは火災を恐るべきよし申ければ匡房卿の曰く日本國失ずば此書籍も失べからず朝家失べき期來らはこの書籍もうすべし火災恐るゝに足らずと申されけるが後に仁平の頃彼の書籍みな燒失せけるに果して其後は朝家もなきが如くにおとろへ給へり匡房卿後三條院の東宮にておはせし時より學問の御師範たりしが帝御位に卽せ給ひて後震筆の宣旨をかゝせ給ひて伊勢太神宮へ奉らむとせさせ給ふ時匡房御前にさむらはれけるに讀聞せ給ふ其文に朕位に卽て後一事として僻事せずと云ふ事をかゝせたまへりければ匡房此御詞如何侍るべからむと申されけるに殊の外逆鱗ありて汝何事を思ひてかゝることを申やと仰られければ匡房申上られけるは先に藤原の實政を以左中辨とし給へりこれ常陸辨隆方を超させ給ふに侍らずや其事はいかに侍らむと申上られければ帝御心に思し合させ給ふことやありけん御氣色すこしなほりて其宣命は讀も果給はず持て內に入らせ給ひけり此帝未だ東宮におはしましける時春日詣のありけるに和泉の木津にて隆方と實政と船遊びをしていさかひをし出しけり隆方實政をのゝしる詞にさまでもなき待幸の同しさまかなと云てけり實政は多年の東宮の學士にて老者なりければかくあざけりたるなり實政泣々此事を訴へ申ければ是を易からず思し召しつめて御位に卽せ給ひて後隆方か官を貶されたるなり然るに此度匡房の申されたる事をふかく思し召し知られけるにや其時までは出居の御座にて供御はまゐりけるに御前に誰かあると問せ給ふに隆方さふらふよし人の申ける時かれにむかひえ物はくはしと仰せられて內にてぞ供御はまゐりけるこれ卽ち匡房の諫めを納給ふ御心より隆方に對はせたまふ事を恥思し召たるなり又或人內々匡房にむかひて口口の院の御學問はいか程におはしまし候やと問ければ佐國ほどにやおはしまさむとこたへられければ國王のさほどまで學問せさせ給へりしことを其人感じ思ひけるとぞ匡房和歌よりは詩文を以て世に名高かりし少き時秋日閑居賦を作られたるに藤原の明衡これを賞して曰其鋒森然たり定めて敵する者少なからんといへり又或時禁中をたゝずみありかれけるを若き學者の事なれば不風流の人ならむと女房達あなつりて匡房を御簾のきわに呼よせてこれを彈給へとて和栞を押出したりければ匡房とりあへずあふ坂の關のこなたもまだ見ねばあづまのことも知られざりけりと讀れたれば女房達案に違ひて返しもえせてやみにけり此歌のこゝろは東國へ行には先逢阪の關を越てゆく事なれば逢さかの關のこなたもまだ見ぬ身なれば東の事は知らずさふらふといふ事にて和葉をあづまことゝ云ふによりて事と琴とをかねて讀まれたるなり匡房老後天永二年の頃病つきて剃髮せられ七十一歲にして薨せられたり此人世に江帥と稱したり其子隆兼は式部少輔維順は式部大輔たりし蓋聞江家次第者大江匡房卿二條關白道家公命而所撰也恒例臨時之政事祭奠法會之儀式無不悉存誠朝廷之龜鑑有司之准則者也明朝象棊の事明仁宗在東宮時甞二內侍象基因命曹子棨應制詩云兩軍相對立雙營座運神機決死生十里封疆馳鐵馬一川波浪動金兵虞姬歌舞悲〓下漢將旌旗逼楚城興盡計窮征戰罷松陰花影滿殘秤帝和云