爛柯堂基話卷之三ち沙門の首を刎てけり帝棊を被遊果て後沙門を御前へ召されければ典獄の官勅定に隨て首を刎ねたりと申す帝大に逆鱗ありて行死定後三奏すといへり然るを一言の下に誤を行ふて朕が不德を重ぬ罪大逆に同じとて卽ち傳奏を召して三族の罪に被行けりさて此沙門罪なくして死刑に逢ひ給ひぬること只事にあらず前生の宿業にておはすらんと思し召されければ帝其故を阿羅漢に問給ふ阿羅漢七日が間定に入りて宿命通を得て過現を見給ふに沙門の前生は耕作を業とする田夫なり帝の前生は水に住む蛙にてぞありける此の田夫鋤を取て春の田をかへしける時誤て鋤の先にて蛙の頸をぞきりたりける此因果にて田夫は沙門と生れ蛙は波羅奈國の大王と生れ誤りて又死罪を被行けるこそ哀れなり然ればこの上人も何なる修因感果の理にてかゝる不慮の罪に沈み給ひぬらん不思議なりし事共なり太平記引事按に梁の武帝右の事に相似たる事あり達摩見天竺僧行事昔し天竺に一寺あり住僧最多し達磨和尙此寺に入りて僧共の行を見給ふに或房には念佛し經を讀み樣々に行ひ或房を見給ふに八九十なる老僧の圍棊を打ち佛もなく經も見えず棊を圍むの外他事なし達磨件の房を出て他の僧に問ふに答へて曰この老僧二人は若き時より圍棊の外する事なし凡て佛法の名をだに聞かず仍て寺僧にくみいやしみて交會することなしむなしく僧供を受外道の如く思へりといへり和尙是を聞いて定めて樣あらんと思ひて此老僧が傍に居て圍棊を打つ有樣を見れば一人は立てり一人は居れりと見るに忽然として失ぬあやしみ思ふ程に立る僧は歸り居たりと見る程に又居たる僧失ぬ見れば又來ぬ左ればこそと思ひて圍棊の外他事なしと承るに證果の上人にこそおはしけれ其故を問ひ奉らんと宣ふに老僧答て曰く年來此事より外他事なし但黑勝ときは我煩惱勝ぬとかなしみ白勝つときは菩薩勝ちぬと悅打に隨ひて煩惱の黑を失ひ菩薩の白の勝たんことを思ふ此の功德によりて證果の身となりはべるなりといふにぞ和尙房を出て他僧に語り玉ひければ年來にくみいやしみつる人々後に拜して皆貴みけるとなん宇治拾遺物語に見えたり辨慶傍觀圍棊助指の事源廷尉門下之壯士相集圍某駿河龜井相當武藏坊辨慶伊勢三郞在側駿河劣于龜井二道武藏坊指而助之龜井怒伸臂打武藏之頰武藏直打三郞三郞驚曰狂僧何爲辨慶曰輪次打也輙付一笑而散葆光祕錄獨嘯庵所著右天保癸卯六月常州笠間藩儒醫棚谷善庵と會せし時基話に及びしかば此事は聞得たり因に云ふ仙臺の林子平が著述を讀しに辨慶を譽しことあり源義經京師を沒落して奧州へ下る道中主從共に欝氣して力も脫落したるに辨慶のみ時々狂言を發し人を笑らわせ又若輩なる口論を仕かけ人氣を引たてなどして危き道中を難なく奧州迄到着したり是ぞ辨慶か智略大事の所を能く會得したる故にかゝる狂言狂行をもなしたるなり一偏の勇僧とのみ思ふこと勿れ貴ぶべしといへり按るに辨慶圍棊の日不意に龜井に打れ驚ずして輪次打にて笑を取りし樣子實に智勇有餘と云ふべし贈汪叟序朱彝尊湯武周孔古之大聖人也而稽康非之薄之韓愈之文至矣而劉胸訓之天下以爲賢一〓之人曰否聽者從而疑之矣同調以爲工異乎巳者以爲拙味者從而信之矣是則毀譽之至無定者末世之文行也因思藝事之微有一定而不可清者宜莫如奕方其勝敗決乎前某一品某也二三品較然論定有非毀譽之所能移既極其詣則其人雖吾所惡但可詬及其人終不得話其藝之未至孔子曰不有博奕者爲之猶賢乎已故夫奕雖小數亦有可學焉然藝之至