爛柯堂棊話卷之三者恒僅專心于是未暇究文章道德之業則士君子雖與游未甞不厭薄之噫使其言行際一如學奕者之心而審其得失焉不可因其人而益重其藝乎歙人汪叟善奕者第一品觀其貌醉然可親察其言藹然可聽所爲小詩詳雅而中律出其寫眞畫卷當世鉅公才士莫不嘉奬若出一口將不特以藝重者歟予甞疾世之僞爲君子而勤說以爲文者思力反之子古毀者之中予雖好予者不能奪也輙悼平生知巳未若叟所遇之多復自笑不能學進乎奕徒以無定之毀譽聽習俗愛憎之口而已題其卷遂因所感以告之汪漢年與盛大有か手基大極へ先を打し譜へ序文を書入へし算哲と道策との圍棊大極の理を以中央へ先を置し棊同く載へし大〓名変の事畫舫多以奕爲游者李嘯村賀園詩序有云香生玉局花邊圍國手基是語可想見湖上圍基風景矣楊州國工祇韓學元一人而已若寓公則樊鱗書程懶予周東公盛大有汪漢年黃龍士范西平何闇公施本庵姜吉士諸人後先輝映范施同時稱國手范著桃花泉奕譜施著奕理指歸皆傳子世今之言基者動曰施范近頃江戶の人太田雄藏肥前長崎へ遊びし日〓人に邂逅しけるが雄藏を以て范西屏に比し賞譽して贈る文あり〓にて范西屏は古今の良手と見えたり〓朝基者程蘭如之事畫舫錄程蘭如奕某不及施范而象基稱國手右は水藩彰弘館總裁川口長孺文通の次抄出して贈らるゝ所なり〓人の某譜は予が著す所の某經精妙に近譜の內より選みて其の樂むべき嘉尙すべきものを載せたり其中施襄夏范西屏は巨擘なり近譜は安永の頃江戶へ只一部渡來の基經なり其頃本因坊察元井上因碩其外諸先達〓某の品格を評論せり師匠烈元より聞きしことあり因碩は凡三四段位の基なりと云けるよし察元は夫よりは上なるべしといふ烈元は徐星友を日本風にて器用なりと云はれしを覺えたり范西屏か著したる桃花泉奕譜を見るに隅の定石又石立等の作なり一人の力工夫にて編輯せしは可賞事也近來名人丈和と〓棊の談に及びしに阿波の米藏位の基なるべしと云き是は彼が某風の異るを見て輕視するなり如斯云へば彼を擧げて己を貶すなりと怒る基者もあるべし後世自然長崎邊にて〓人と圍棊有之まじきにもあらず輕侮して敗を取らざる爲に戒の用心を遺すのみ日本の名人と優劣を論ずれば同日の談と思ふべからず神君知彼知己たまふ事神君小牧山へ御陣を据られし時秀吉が方には隍を掘り柵を造るを御覽じて信雄に宣ひしは先年長篠にて我故右府と共に斯る手術して武田勝賴を待受しに勝賴血氣の少年故陣を亂して切懸りしに此方は待設し事なれば思ふ圖に引付鐵砲にて打すくめ不勞して勝を得たり今秀吉其故智を用ゐ柵など造るとは見へたりかゝれば貴殿と我等を勝賴と同じ類の對手と思ふと見えたりとて笑はせ給ひしとぞ落穂集今按るに兵書に所謂知彼知已則勝也勝賴圍棊の譬をいふ事武田勝賴長篠の軍敗北の後高阪彈正極諫しけるに勝賴仰けるは足下の申すこと理の至極なれども家康一人の覺悟にて勝賴にむかひて合戰は思ひもよるまじ又信長も一身にては我等と戰はんとは思ふべからず信長は德川を後楯にし德川家は信長を楯に築て働事なり去年長篠にて後れを取り大身小身各法勝院殿御祕藏の良將等大半討死の事我過少からずと雖も信長今日本一の大身德川家又海道一の良將兩旗を以て若輩なる勝賴と國を離れて戰ふに柵を三重にまでふりて切處を構へ城郭の如くせんとは我思ひ爛柯堂基話卷之三