爛柯堂基話卷之三寄らざりき是を曉らざるは愚昧の故なり敵柵をふりて勝ちたるは棊に寢濱をして勝ちたるに同じ然れば敵の心になりて己が上手を以て勝たるとは思ふべからず信長家康兩人に果報は劣るとも武勇は劣るべからずと仰せければ高阪あきれて默然たり武田三代記右の一話に付予圍棊の作物あり別記す人は好む所を以て譬を取る事人各好む所あれば一夕の茶話酒談にも多くは其好む所を以て譬をとるもの也權現樣秀吉公を始め奉り勝賴其外眞田昌幸等棊の譬喩を引し事まゝ見へたり其二三をいはむ天正二年の頃武田四郞勝賴は遠州表名譽の弓矢近國の賞美尠からす七月甲州へ歸陣の後一門譜代等を集められて祝儀の饗應ありて盃を給ふ砌內藤修理高阪彈正に申けるは今度の祝儀目出度々々々とばかり申て家法信玄公の御逝去後は悉く廢れたる成へし一命を捨て侫人共を切殺し腹切るべしと怒しところ高阪遠慮ある士なれば能こそ申され候某にまかせ給ひ一通りの儀の御座敷を穢し候ては忠臣の缺る所あるべし某先可申候間其節の侫人共が返答によつて決すべし迚ひかへ居し處へ高阪方へ御盃被下候に付勝賴の盃をいたゞきながら長閑にむかひて彈正申けるは長閑聞給へ今日頂戴の御盃は新羅三郞殿二十八代の武田滅亡御定めの盃是なり適れ不思議の御酒を被下もの哉と高聲に申せしかば長閑勝賴の方を一目見て物云はず彈正申分なりとの挨拶彈正重ねて長閑不審をうち召れよといへ共御前にが〓〓敷體なりしかば流石の長閑も何とも申出し難くひかへ居る內藤修理申けるは此方より申聞候當家三年の內傾運の御祝儀よと申に付彈正中を取ていやとよ御遺言にも十年の內大切なりと仰置れ候うへは十年迄高阪存命ならば甲信兩國は敵の物とはさせまじと言に付よふ〓〓此節長閑申候は所存候はヾ殘らず被申上へし法性院殿御祕藏の各申さるゝ事を屋形樣にもいかで御背き可有哉と申にぞ高阪申は當春中美濃國數ケ所御手に入今高天神の御手際家老共は達而控へ御異見申上候得共出頭衆と御相談の上御譽れを被成候事是御滅亡の御首途にて候其譯は向後家老中申事御取上なく出頭人の申事萬事御利運と可思召候間二三年の中信長家康と兩旗を以相手に被成無理なる一戰被成候事必定と奉存候然る時は家老ども初め前代より武功を積し輩悉く討死仕り信長家康の方へ領國は切とられ勢いつきて滅亡とは慥に見定め候但し一言成共此一條答めに出る者あらむ哉夫こそ御家を亡す逆敵なれば家老共望次第相手たるべしと面色替りて申ければ長閑大炊も赤面に及びけり勝賴にも奇怪に思召顏色なりといへども武田家四天王といふ馬場內藤高阪山縣が事なれば腹立の色も顯さずつと立て奧へ入給ふ四臣も退出せしとなり其夜高阪了簡に片皮破りの勝賴今日の我々が無禮空知らず持成し給ふは少しは御賴みありと存じて夜詰に罷出る勝賴は高阪夜詰珍らしと被申に高阪御側近くよりて御前の人をのぞかれ候へ御當家長久の御相談ありと申上ゆゑ各御次へ立し跡にて勝賴へ諫言なすは當春切とられし東美濃不殘是に罷在信長の男御坊へ被遣御緣近き御一門方の聟と可被成候然ば信長元來御緣中の事に候得ば滿足たらむ夏中攻取候高天神城洞郡を相添へ先人質として久々甲府住居の松平彌三郞へ被下信玄御代御緣邊の沙汰計のお兼御寮を勢州長島へ可被遣との心底は御上洛の砌長島は甲州兵馬の着岸其心得有之候得共今は無益に相成候間此姫を源三郞殿へ遣はされ家康公に御入魂被仰入候はヾ德川家も早速御合體疑ひなく候織田德川の兩家を御緣組れ候はヾ押かゝりて北條殿をおし潰し關七州御手に入候へし然らば信長は上方筋を切取度存念候間却而加勢を可被差越候北條家より御逝去の砌使者の往來殊には郡內さかひへ手さしをなしたるもよふ旁以ふりあしく候得は押かけて潰し候へとの事然る時は只今の御分國に七州を合せ候得ば十二ヶ國也下野の爛柯堂基話卷之三