爛柯堂某話卷之三國の儀は宇都宮先年より無二に被申入候得ば野州の儀外に相背き申衆有之間敷候得ば十三ヶ國丸の御知行となり申候追々御分國增可申候中々信長抔の分にて當家を狙ひ可申存寄も有之間敷事に御座候と誠心を顯して機密の儀を申にそ勝賴も大〓御得心と相見へ如何にも申處尤の事也某も能々意味を工夫して決すべしとて御夜詰引候て高阪は退出せり長閑御側にありて此由を聞善惡の儀を不申罷在しが其夜は御伽可仕とて御寢間に罷在終夜御物語を致し此機密の計策をほくしける社殘念なり長閑申上るは今宵高阪申上候儀は御承引可有之思召に候哉と乍恐御家之浮沈存亡此一擧に可有之奉存候御大切之場に候ゆゑ今晩御宿直を仕り尊意を伺ひ可申奉存候御當代に至りて御心をゆるされば御心腹を殘さす御語り可被成候某と大炊計に御座候と申上候勝賴聞給ひ長閑汝眞實の段大炊は勝賴を大切に存る心底も能く知れり今日彈正申處利害二筋の中早速決し難し殊更甲信兩國の士民の諺にも信玄より高阪は棊ならば二石も强しと評する我幼年より武藝のみに精力を勵して學文疎く齊家治國平天下の理に於ては我ながら暗し此處是非辨へ難し先は高阪が申處面白く聞ゆる也北條氏政が了簡實は永々武田の片腕とも賴み難し然らばとて信長家康を無二の味方ともたのみがたし然りといへども北條を押たをして七州を領する時は關東を限り深く弓矢の元手丈夫也信長家康申合すとも容易は當家を傾くべき强みも見えず天下の望さへ急にせざれば只今の領國北條跡を合せて十二三ヶ國を手に付て出羽奧州迄幕下に屬すはたしかなるものなれば其內信長は上方筋を手に附るとも關東まで手に入らむとは存もよらず十に九つ迄は此了簡にしたかふべしと思ふなりとの仰を聞て涙をはら〓〓と流し是非もなき儀に御座候惜ひ哉君の御武勇は謙信の操にも違ひ申さす奉存候と敵國の評判なれば慥成事に御座候殊に當年美濃に於て家老共異見之通りに候はヾ十八ヶ所の城々は御手に入申間敷候其後高天神も家老共御了簡に被成候はヾ小笠原與八郞も降參仕間敷候美濃遠州兩度の御武勇東海道に響申候是と申も七ヶ國の北條殿を御旗下と被成候得ばこそ後に御氣遣なく御働被成候へばこそ弓矢の御威光も追日てかゞやき申候處謂れなく北條を押倒し候はヾ關東武邊の國々士も民も義を立て男氣の七ヶ國何として當家の手に付可申哉畢竟高阪山形馬場內藤を始め大名と成もはや身を大事に仕り長生を望み候心底と相見へ申候君には御年も盛りに日の出の弓矢を俄にくもらせ奉る家老共の心底こそ無念千萬なれ惜しき事には高天神責落し給ひし勢ひにて德川を追ひ倒し東海道をおして御上洛あらむには泰山を以て玉子をおすが如く信長も御馬前に降を乞ひ申さむ左なくば平家の崩れの如く西海へ逃走るか二つの外あるべからず候ものを是非もなき儀とすゝり上て泣口說ければ元より武勇に於て尖なる事死をかへり見ず軍好の勝賴ゆへうなづき給ひ如何にも長閑が申こどく關東七ヶ國の者ども勝賴を不義とそんじて屬せざる時は却而禍をまねくに似たり差當りたる敵をてきとし有來る味方を味方とせむは其失なかるべしとの給ひ高阪が金言の異見を無に成し事偏に武田滅亡の時節とは云ながら殘念なりし事共なり武田勝賴が此兩話を見るにも圍棊を好みし有樣なり甲信兩國の諺にも高阪彈正は信玄より棊ならば二石も强かるべしとあり近來永祿九年春武田晴信と春日源五郞が某譜出たりと聞く先思ふに人物を看想して實にも高阪事二石も優るへし且又君臣の間勝負ある藝故會釋も可有と推察して試に其譜を熟覽するに信玄が方憂れり此譜によりて考を得たる事あり西土の圍基は互に勢子の座へ初に二ツづゝ置て打初る日本にては始より先を置ゆゑに手談洪大にして變化無窮趣も又深し此譜には勢子へは置ね共末追々に勢子へ置ぬ依て思ふに既に此已前より打來り天正の頃本因坊利玄坊抔の上手共今の樣に打始しと見えたり建長五年日蓮上人と吉祥丸が基譜を見るに此頃は未だ西土風なり日本の棊海外に秀しは此意味もこれあるなるべし爛柯堂基話卷之三