爛柯堂基話卷之四爛柯堂基話卷之四安倍仲麿の話往古には遣唐使とて皇國より才智ある官人を撰み唐土へ物學びに遣はさるゝ事ありし夫には大使副使判官主典とて四人を四艘の船に乘て遣さるゝ例なれば此遣唐使の事をよつの船とは歌には詠り元正天皇の靈龜二年六月多治比の眞人縣守を押使とし阿倍朝臣安麿を大使とし藤原宇合を副使として唐へ遣はされけるが此時下道の眞備臣と云ふ酸に吉備大安倍の仲麿を留學生として遣はさる留學生とは遣唐使の諸生として從ひ行人をいふ也此時仲麿十六歲なりし其後十七箇年を經て聖武天皇の天平五年四月に又多治比の廣成遣唐使なり同き七年三月廣成歸朝の時仲麿は唐朝の風を喜びて唐土に殘り止り吉備公ばかり廣成に從ひて歸られたりこの吉備公十九年が間唐に在りて習ひ侍られし三史五經其外陰陽道の事軍制陣法〓に諸藝の事ともを記して聖武帝に獻せられけり此時唐禮百三十卷大衍曆一卷立成十二卷孔子及び十哲の像測影鐵尺鐵の方磐律管樂書要錄弓矢等をも捧げられしより唐朝の禮樂制度はじめて日本に傳はれりしかば仲麿は唐朝に殘り止られし故立宗皇帝深く其志を愛して名を朝衡と改めさせ左補闕の官を授け御子儀王の友とせらる扨程なく祕書校書の官に遷られけり又十五年の後孝謙帝の天平勝寶二年遣唐使を定めらるこの度は藤原〓河を大使とし大伴古麿と吉備とを副使とせられたり同き五年正月遣唐使の人々唐朝に入けれは立宗皇帝蓬萊宮に於て外國の使者共の謁見を受らるゝに日本の使の座を蓬萊宮の西畔の第二吐蕃國の下に設け新羅の使を東畔の第一大食國の使の上に設けたりけるを見て副使たりし大伴古麿これを論して曰古より新羅は吾日本へ貢を奉る國也然に今日新羅の使は東の上に列し吾國の使其下に列する事不快なる事の由申ければ唐の大將軍吳懷寶古麿の肯せざる色を見て直に新羅の使を引て西畔第二吐蕃國の下に列し日本の使を大食國の上に列せしとぞ此時玄宗仲麿に命じて今度の遣唐使を接待せしめられたり扨〓河日本へ歸らるゝ時仲麿も歸朝せんとて玄宗に暇を請て歸られんとしたる時平生交を結びたる詩人文人に書殘されたる詩あり其詩は文苑英華唐詩品彙等に載たり斯りければ仲麿が友たりし王維包佶趙華など詩文を作りて送別せしが旣に船出せんとて明州といふ海邊迄出られけるに唐人餞別の宴を設て仲麿を饗しけり夜に入りければ海上の月を見て天の原の歌を讀まれたれど國音通せずして唐人共其歌の意を解する事能はざる故漢語に譯して見せられければ何れも感嘆したりしとぞ夫より明州を出帆せられたるに計らず海上にて難風にあひ旣に魚腹に葬られむとせられしが辛ふじて安南國に漂着しければ〓河と共に再唐朝に入られぬ其時古麿と吉備公とは恙なく歸朝せらる然るに仲麿日本歸朝の海上にて難風に逢ひ溺れ死したりし由唐土に風聞有ければ李白は詩を作りて是を哭したり其詩は日本晁卿辭帝都片帆百里繞蓬壺明月不歸沈碧海白雲秋色滿蒼梧晁卿とは仲麿唐にて改名して朝衡と曰けるに朝の字と晁の字と其音通ずる故に晁卿とも曰し也扨仲麿は難風の災を逃れ暫く安南に在て唐朝に歸られければ玄宗もとの如く官を授られ御子肅宗皇帝の代に至りて上元年中に仲麿を左散騎常侍安南都護といふ官に擢られ又光錄大夫御史中丞北海郡開國公に轉せられ三千戶の食邑を與へられけるが肅宗皇帝の御子代宗皇帝の大曆五年正月に七十歲にして唐に卒爛柯堂基話卷之四