爛柯堂基話卷之四せられければ代宗又潞州の大都督を贈官し給へり彼仲麿と共に歸朝せむとしける〓河も終に唐朝に止られしが此人は左大臣房前公の子成故孝謙帝殊に親愛し給ひ後に渤海國の使高元度に言付けて歸朝を勸め給ひけれど〓河强て唐朝に止まり名を河〓と改めける然に光仁天皇の寶龜元年三月新羅より級飡金初正等を使として日本へ貢せしに不禮の事ある故此使を咎むべき事なりしかと此新羅の使唐朝より仲麿〓河等が書翰を事託り來りたる功に免して其不禮を咎めず太宰府に於て饗應せさせ給へり然るに同き十年五月唐朝の使者孫興進秦怠期等日本に來りければ右大臣河麿の館に於て唐使を饗せ給ひ綿三千屯を賜りて歸國せしめ給ふ此使に仲麿唐朝にて卒せし事を聞せ給ひしかば此國の仲麿が家の衰へたるを憐み給ひ葬祭の料として絶百匹白綿三百屯を給はれり其後五十七年を經て仁明天皇の承和年中藤原の常嗣と小野篁を唐使に遣はさるゝ時先年より以來日本の使の唐國にて死したる者八人に位記を賜はり正二位を贈らる其詔に曰故留學問贈從二品安倍の朝臣仲滿大唐光祿大夫右散騎常侍兼御史中兩北海郡開國公贈滯州大都督朝衡に正二品を贈と書せ給ふ初仲麿入唐の節僚人として渡りたる羽栗吉滿といふ者あり仲麿に從ひて唐に在る間に唐女を娶て一子を生めり其名を翼と曰しが天平五年廣成歸朝の節仲麿に暇を乞ひ一子翼を伴ひて日本に歸りぬ此翼といふ者性質聰明にして歸朝の後出家して學業殊長し朝廷に聞へければ還俗せしめて正二位を授けられ桓武帝の延曆十年迄存命せしとぞ古傳に仲麿は中務大輔船守が子とあれども此船守といふ人續日本紀に見えねば慥に知り難し安倍氏は孝元天皇第一の皇子大彥の命の後也安倍仲麿あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出し月かも古今集覊旅の部にもろこしにて月を見てよめるとて此歌を載られ歌の左の注に此歌は往昔仲麿を唐土に物習はしに遣はしたりけるにあまたの年をへてえ歸りまうでざりけるを此國より又使罷りいたりけるにたぐひてまうて來なむとて出立けるに明州といふところの海邊にて彼國の人うまのはなむけしけり夜に成りて月のいと面白ふさしいでけるを見て讀めるとなん語り傳けるとあり是は仲麿を學問の爲唐土へ遣はされたるに數十年を經ても歸朝せられざりしところに〓河と云人を又唐へ遣はされて其〓河に伴ひて仲麿も歸らんとて明州といふところの海邊より出帆せらるゝ時唐人共が仲麿の爲に餞別の酒宴をしたるに夜に入て明州の海の上へ月の面白ふさし出たるを見て讀れたるなり歌の心は天の原とは空の一面に廣きことなり其空を遙に見渡せば面白ふ月が出てあるが此月は我幼少の時奈良の都の三笠山より出たる月と同じ月なるが此年頃久しく唐に住たる時常に月をみたれ共斯樣には思はざりしに此度久々にて故〓の日本へ歸らむと思ひ立たる故この明州の海上へ出る月を見ればふと三笠山へ出たる月の事が思出さるゝといふ心也又此歌を貫之が土佐日記には靑海原ふりさけ見ればと書れたり昔しより靑海原とも天の原とも兩樣にいひ傳へたる歌にて有りしにや土佐日記曰廿日夜の月出にけりと云々昔安倍の仲麿といゝける人唐土に渡りて歸りける時に船に乘るべき處にて彼の國人馬のはなむけし別れを惜しみてかしこの唐歌作りなどしける飽すやありけむ廿日の夜月出る迄ぞ有ける云々あをうなばらふりさけ云々かの國人聞しる間敷覺へたれどことの心をおとこ文字にさまを書出してこヽの言葉つたへたる人にいひ知らせければ心をや聞へたりけむいと思の外になん愛ける云々唐書地理志曰明州は屬江南道開元二十六年置以境有四明山爲名云々爛柯堂基話卷之四