爛柯堂基話卷之四遣唐使は三十四代推古天皇十五年始て大禮蘇我妹子を使として信を隋に通ぜしより後屢國史に載たりそが中に仲麿は唐の玄宗の時にして滿朝盡く文苑の中に立て終に右を讓る事なく三笠山の一章の天地皆震動す彼の四方に使して君の命を辱めざるものか後歸朝の折から海上颶風に逢ひて安南國に漂流し年を歷て再び唐朝の賓となり彼地に卒す江談曰寫本三卷也大江家の人々の詩文を論ぜし談話ともなれば江談と號す安倍仲麿唐土に卒して鬼形に顯れ吉備大臣に見へしといふ俗說古く言傳へし事と見へて此書に載たり仲麿渡唐後不歸於唐家樓上餓死吉備大臣後に渡唐の時見鬼形與吉備大臣言談して唐土の事を相〓ゆ件の仲麿は歸朝せざる人なり文苑英華に仲麿が五言排律詩一首あり胡公とあり朝衡と云しが字相似たる故誤たるか啣命本邦に使するとありて天中戀明主海外思慈親と云句ありて仲麿に相違なしといへり唐詩品彙にある李白が絕句は前に記しぬ送祕書晁監還日本王維積水不可極安知滄海東九州何處遠萬里若乘空向國惟看日歸帆但信風〓身映天黑魚眼射波紅〓國扶桑外主人孤島中別離方異域音信若爲通安倍仲麿入唐記の事爰に又安倍仲麿入唐記と題せし俗書あり其大意は四十四代元正天皇の御宇嘉瑞ありて靈龜と改元あり其頃迄日本未だ曆法傳らず之に依て舍人親王の奏によりて唐土に金鳥玉兎集と云ふ曆法の書の有之由聞えしかば使を遣はして求め給ふべき旨天皇勅命ありしかば其使を選ばるゝに安倍仲麿其選に當り遺唐使となりて唐土に到る是玄宗皇帝の開元四年也寶物を獻じ天皇の勅意を述ぶ楊國忠張九齡等商議して先づ鴻臚館に置き追て沙汰に可及旨勅定有之然るに仲麿が人物風標尋常に非ず玉兎集を此者に渡しなば歸國の後大に用ゐられ能國政治る時は却て唐土の益に非ず此者を留めて不歸に若かずと歌舞の美女を與へて其意を示すと雖も忠臣故不肯速に書を得て歸らんことを求む時に安祿山といふ侫姦ありて凌雲閣といふ高きこと三十丈の樓上にて饗應し日西山に傾く頃皆々樓を下り梯を去りて捨置く故遂に樓上に餓死す年を經て求法の爲入唐の僧道慈の歸し時其音信を問ふに仲麿が存亡不知四十六代孝謙天皇の御宇吉備大臣又曆書を求る遣唐使たる時仲麿が忠魂属鬼となりて吉備公に唐土の事を〓ゆ唐にて又吉備公をも殺すべく議しけるに罪なくしては殺し難きより難題を設け基は未だ日本へ傳へざる故基の勝負によりて殺すべく謀り雍州の官人玄東と云名棊に命じ朝元閣に於て吉備公と圍棊せしむ時に仲麿が靈吉備公が蔭身に添て〓へし故一手も閑手なく七八分濟みよりし時玄東が妻隆昌女といふ者是は玄東よりも棊を能せし故夫の大事一命にかゝる某也と願ひ出で給仕の女の眞似して傍にありて觀るに棊終局に及び目算するに夫玄東一目の敗に見極めたり爰に於て如何とも爲すべき樣なければ黑子一石を呑て助たり棊を作り終るに果して對棊になりぬ玄東は唐土第一の名棊として日本の棊といふものを始めて打つ者に不勝甚恥辱を得し也然に約束なれば數月逗留の後玉兎集を吉備公に賜る歸朝の日限も定りければ又安祿山が奸謀にて吉備公を殺すべしと出帆の海濱へ追手を向はしむ時に玄東が妻隆昌女追手の將たらんことを願ふ其旨意は夫玄東名棊の撰によりて圍棊を命ぜらるゝに始めて打し吉備公に爛柯堂基話卷之四