爛柯堂基話卷之四去程に和田義盛は工藤祐經が方に行て對面を乞けるに祐經頃日は保養の爲引籠り罷在れば對面は叶ひ難き由斷申ければ義盛重ねて密々の用事に付面談致し度義有之間病床へ推參可致と申ければ是非なく對面に及びける義盛祐經に向つて申されけるは今度佐々木信實殿中に於て貴邊に對し狼藉に及び其場より逐電し出家せしむる由承りぬ夫れに付其許信實に意恨ばし有之ば某諸士別當の職なれば何國までも尋出し狼藉に及びし趣意相糺し申すべし若し又穩便之儀を存られば君より御尋ねの節意恨なき由御返答申さるべし何れにも其許の存念次第如何樣にも計ふべき間心底の趣遠慮なく申さるべしとありければ祐經は元より少しの疵なる故惱事なきに仰々敷振舞諸人の見舞を心地よしと思ひて態と重くもてなし居る所へ義盛來りて見舞は謂はず右の談に及びしかば祐經少し氣に障りしかども思慮深き男なればいや〓〓和田は別當職といひ殊に智惠逞しき男なれば我にも越度ある事を知りて斯はいふやらむ若し惡敷返答せば却て身の爲宜かるまじと分別し笑らひを作りて申けるは仰承り候ひぬ箇樣に引籠り罷在候は疵故にては候はす殘暑に侵され折々腹痛忍び難く候故保養致候也信實が事は畢竟少年の事なれば何ぞ心に掛申さん元より佐々木父子に意恨なければ心ありて致せし事にても候まじ時に取つての戯れならん疵を蒙りしは某が不運にて信實が義に付て聊も宿意無之候へば必ず御心に掛下さるまじと返答申ければ義盛聞て尤も左社候半事を好は小人の所爲なり治るべき義は成べきたけ穩便の計ひ社有たけれ彌御邊其了管に於ては某宜しく無事を計り申さむとて義盛は歸りぬ程なく鎌倉殿より御使を下され祐經が所勞を訪はせられ重ねての上意には信實出家をとげ遠く遁逃せしむる由祐經存寄の訴へ申べしとの義なり祐經平伏して難有上意を承り候某頃日外邪に侵され出仕を怠り候を痛みに因て籠居仕候樣に思召され候段奉恐入候面上の疵は聊の義にて相惱み申す程にても御座なく最早平愈仕り候又信實が儀は畢竟小童の義に候得ば私に於て何の所存も候はず殊さら出家遁世致候事定めて其身の誤りを悔て斯の振舞を仕りしと存候此上の御憐愍には信實が狼藉の義穩便の御沙汰成下され候樣願ひ奉り候間此由御前宜しく御執成被さるべしと神妙にぞ相述べけるこれ偏に義盛が計ひに因て也されば右の一件無事に相濟ければ盛綱大に喜び和田方へ禮謝に及びける義盛籍に信實我家にある由を知らせ時節を見合せ世に出すべし夫迄は某預り申さんといふに盛綱驚き益々和田が厚情を感し宜敷賴み存る由禮謝して歸りける棊所の始祖本因坊算砂豐太閤より棊所の證文被下事棊所の始祖本因坊算砂法印日海豐臣太閤の御時天下の上手とも數輩と試の棊手合被仰付候所本因坊諸人に勝越候に付初而某所に被仰付手合以下の法度可申付旨御朱印御證文被成下之子時御加恩等拜領す天正十六年閏五月十八日也御證文に閏五の日月を記して年號なし秀吉公治世中の閏月を檢するに文祿二年也思ふに此時朝鮮の役和して無事閑暇の日なれば果して此時と考へ定ぬ其後算砂の圍棊勝負日記を見しに慶長八年の條下に十九年以前試の某被仰付と云事見えたり由之又疑ひを發して曆書を推すに天正十三年也考るに十四年四國を平らげ十五年九州を鎭め誠に天下太平に歸し十六年聚樂城へ天皇の幸を願ひ獨關東の北條が不廷のみにて一統同樣に成し故に百廢を興す御志にて棊所をも設置給ひしと見えたり依之圍棊は日本海外の國より勝れり西土にても日本の善棊を稱する諸書に見へたり小技と雖も異國に勝ること是亦太閣が大武の一端を思ふべし大〓康熈雍正中の國手に黃月天なる者あり日本が名棊に釋日海あり奇對と云ふべし不圖思付しまゝ爰に記しぬ圍某本朝に於に翫び來ること尙しと雖も就中信長公の御時より世に流行し秀吉公棊所を置給ひし已來手合等相定るなり閏五の事を又考るに日爛柯堂基話卷之四