爛柯堂基話卷之四本文明の頃より天正の半まで東西南北一日も易からざるを秀吉公の武威にて次第に平擾し給ひぬる其功績偉なり天正十二年夏柴田勝家を亡して間もなく十一月二十日秀吉公大納言に任ず同十三年內大臣と成給ふ是より宣下なけれども世人將軍と稱す然れば此年より既に天下の威權秀吉公に歸す國家多事と雖も意とせず技藝の詮議に及ぶ其大量推察すべし試の棊被仰付しは十三年にて御證文賜りしは十六年也其文中但仙也儀は師匠の事に候故互先可爲とあり如是の小事にて師弟の禮を存し給ふ行屆し御事共感入ぬ因に云一書を見しに天正十三年七月二十日に秀吉公關白宣下參内前日より以の外なる大地震にて〓凉殿其外殿々も破損しける廊下も半崩れ掛し體也寅の上刻上拔延引に及び斯迄の大禮を日は延すは如何と禁中の衆議一決して案家へ勘文を可差上旨然は此節延引する事秀吉公御殘念に思召さるゝ段石田治部を召して竊に案家の者共へ今日の勘文を差上ぐべしとて五方博士五人方へ今日銀子百枚宛被下しかば算木にも及はす勘文を早速差上しかば昨今の日取叶はぬ故如是也今日申の刻に入候はゞ少しも凶變あるまじと申上ければ卽秀吉公參內あり公家衆各追從して未の下刻御前へ御出ありて辱も冠を被下秀吉公頂戴ありて頭の上へ置と否や哄と笑ふ聲を何者ぞと互に顏を見合せて只今笑ひ候は天井也-といふ聲の下より猿の頭に冠着にけりと哄と笑ひしは實に猿に似たる顏にて能々見るに可笑故變化の所爲かと各呆けるに秀吉公は不取敢上の句を付られける元服はけふの未の終りにて天子叡感不斜關白の詞は鬼神も感應ありしやと御感吟數遍なりしが當意卽妙の付句に依りて無恙御禮終りけり按るに秀吉公此場に臨て當意卽妙貞任に優る事遠し十三年內大臣同關白宣下不審あり猶可尋爛柯堂基話卷之五金吾中納言秀秋の事金吾中納言秀秋の由緒を尋に元來木下肥後守定家の三男にて若狭少將勝俊宮內少輔俊房には弟也大閣秀吉公の政所は秀秋には伯母也然るに政所は大闇御在世の砌御機嫌を伺ひ被仰上けるは私事淺野又右衞門長勝が娘お佞にて姿醜く誰ありて緣組申入す候所利家の媒を以て殿下其頃木下藤吉郞と申信長公〓洲御在城の節は殿下も炭薪の軍役を被成僅の御宛行故不自由の上若年の御身持不行跡の事共故諸方より借金買掛り等の催促雨の降る如く申來下人は只兩人ありしを後は壹人召仕はれ自分は手鍋下けて艱難の思ひをとげ漸々借方の催促も次第に薄く成行候ひし其頃度々懷姙致し候所被仰候には加樣に借金方多く家來も兩人遣ひ難き程の貧乏の中へ子供出來ては仕官の勤務遂け難し何卒子の出來ざる灸にてもせよかしとの御意ゆへ自分も熟々考へ候に實にも二つ召小袖の下着は自分の小袖の丈を縮め縫上し御番の折は間を合せ斯る侘しき故いかに欲きとても子供が出來ては身上の障り何卒內證の苦勞を薄くし勤番出仕を快くさせまして立身出世吉事を見んと中椿とやらん云ふ醫師へ伺ひ濟した灸の當座は能きいて嬉しく子種が止らぬと歡しは今の歎き其後何程神佛へ願ふても子種の下る事もなし然れ共御身關白の高位に昇り給ひし御運に誘引れ今は北の政所樣と號し大小名の崇敬昔を思へば勿體なき程の果報朝夕珍膳美食飽滿ても樂しみ共思はず甘し共思はざる何故かと思召そや懷姙して流したる子が三人迄今頃育ち成長せばいか計の歡び日本の大小名に圍繞渴仰せられん者をと是のみ悔敷奉存候と御恨