爛柯堂基話卷之五み被仰候故大閣も殊の外御難儀に思召尤也其節の某が貧乏は世界の中に又有べからず實に其節子種を止し報ひか天罸か隨分心中に願へ共出來ず我妾を幾百人か差置も榮耀の樂しみ計に非ず是が子を產ふか彼か產そふなと手を付し女當年迄六百人に越ゆれ共扨々子種が盡切ないと見へし此上は其方望の者を養子に致し能心を慰み親子の間似をも致さるべし望まれよ〓〓と被仰し時に政所被仰には然らば早速願に御座候へ共哀れ兄肥後守子供の中を御取立被下候はゞ難有との御願ひ也依て秀吉公も御考へ被成肥後守子供三人の中また三男が可用立と思ふ生れ也取立て政所の心を慰め進すべしとありて秀次の御弟に被立從三位中納言秀秋と稱す御懇志誠に御父子に同じ御寵愛ありしかば大小名の崇敬不大方然るに其頃十州の大守毛利中納言大江輝元實子なし依て大閣の思召は秀秋に別段の知行大國の一箇國も可被下に只今闕國はなし御藏入を減しては如何幸かな輝元の養子とすべしと旣に御前に於て囁々有しを御子性衆の中に小早川隆景へ懇志の輩有て此沙汰ある由を告知らせしかば隆景思案致され大閣より秀秋卿を輝元へ養子と仰出されては解退し難し毛利家の事は日本無類の例にて血脈絕す古來は勿論中興大家となりて天下に名を響かせし因幡守大江廣元已來は一代も他家より養子にて續たる事なし此度毛利本家の輝元へ他家たる秀秋を養子と有ては嫡家の血脈斷絕といふもの也此隆景は三男にして毛利の庶子也幸哉我に子なし我家督をば秀秋を某が養子とし小早川の跡筑前一ヶ國を讓り毛利の本家たる輝元へは父元就の七男穗井田伊豫守元〓の嫡子甲妻守秀元は心も剛に智勇兼備たれば是を以て輝元の養子とし毛利の血脈を斷べからずと分別し軈て大閣の御前に出某儀老衰致し大老の一職を漸々相勤候體の所近年の儀病氣度々差發り候得ば幾年の齡を經べき雖然實子なく御恩祿の筑前の國を讓候子無御座候へば名跡某に至りて斷絕の段一生の殘念此事に候願は秀秋卿を隆景が養子と有て小早川の名跡相續被仰付被下候はヾ生涯の本望是に過ずと恐入て願ひければ太閣御一代御談合相手として數年の忠節無類の御相口成しかば早速隆景へ願の通被仰付しかば則隆景隱居し小早川左衞門督秀秋と號し備後の國三十萬六千百四十石を讓りけるが金吾は左衞門督の唐名なれば金吾中納言秀秋とは稱しける豐巨大闔與菊亭右府關按るに此說實を得たりといふべし一書に備後の石高五十二萬石とあり猶可尋業の事の次に入る竹中半兵衞軍旅棊の譬天正十年羽柴筑前守秀吉信長の命を受て中國を征伐備中高松城水攻にして是を落し勢ひ破竹の如し干時安國寺世話をやきて毛利家との和睦旣に相調ひ彌和平仕るべき前の通り分國相違なきに於ては早々申合すべしと三度目に申來る處六月三日の夜也是より御返事可申入とありて返し給ふ竹中重治蜂須賀彥右衞門中村彌平治堀尾茂助淺野彌兵衞かた〓〓腹心の者共老若によらず此和平の所行當り難儀せし也如何各々は存ぜらるゝやと申されければ竹中申は是は一手先の見へざる下手の某と同じ事也色々道筋多しと雖も毛利家の所存測り難ければ返事無覺束然ればとて信長急變隱して隱し難し各存寄申して見給へ某判者と成りて其中のよきを可申候貴所も連歌の宗匠なればとで一句々々に手作に名句も出ず併し他の作意をば句每に理非を分て意味の淺深を判ずるが如くと申て竹中各口を守りてありければ誰も發せず時に蜂須賀彥右衞門申しけるは爰は正しく評定にては中々覺束なくして手さしならざる處に候一手々々討る一六の了簡を以て決せられ候へ其趣は毛利家へ此段明らさまに知らせられて信長は如斯不幸たれ共此上にも安國寺を以て申合たる如く彌和睦あるべきや又變を幸に秀吉を御討取の御所存にや此兩條を聞屆其上にて此の變を幸として弓矢に及は先某は運の勝負たるべし味方の二萬五千と毛利の五萬とは一倍違ひたれ共何程の事候半博奕軍とは此事也先年筑前守殿と九年の昔透破仲ケ間の博