爛柯堂某話卷之五奕は御覽被成御手前にも折々裸に成ても御覽被成たる御覺あるべし我々猶以也十貫文持たる者を五百文持たる者の取んと打博奕は珍らしからず常の事也百文持たる者が一貫文持たる者をさへ打勝て取り裸にする事度々也毛利家は五貫持たる博奕相手此方は二貫五百文の元手にて打掛り候へば此勝負は我等に御任せ候へ稻田と申合せ久振にて候へば若手の突破どもを使つて槍先の一博奕仕候はゞ慥に大利を取んこと十が九は慥に覺え存候其手立は只今申難しとの儀也竹中聞て打驚き是は蜂須賀殿天晴天下分目の評定とは此類の事也中々御器量なくして此境を決し難し依之さしつにても成就せず重治此存念ありと雖もすは其時に至りての取廻し其道を得ず蜂須賀殿なくてはと存候所偏に筑前守殿開運の前表如斯の決定最早他評に不及事也一當り當て御心決せられ候へと諫められしかば筑前守笑壺に入て扨は各々にも博奕平の望にて候哉秀吉も何寄好物也昔し裸に成ては逐出され人の物を斷りなく遣ひて打擲され博奕に負け欠落せし事今覺えて三年に十八度也竹ケ鼻の大博奕に赴しは美濃近江伊勢尾張の突破の寄合五貫十貫づゝにて取りつ取られつせし我一日一夜勝負まち〓〓なりし時桑名の不思議甚六尾張の神主武太夫兩人ふところ殘らず打負て殘し代物百に不足のはした錢を負腹立て小遣にせし某餅買て喰へと投付て歸りしを若輩心に博奕は錢の多少にも寄らず軍の勢の多少によらず一心の軍法爰なりと彼のはした錢を持ちて人の備へをかりても同じ袖の下よりちよくり袂のかげよりこそりと透間を組込々々して八貫文に半夜の內に仕上げ十貫文餘りも負のきし跡へ備へを入替て猿が出ました用心しやれ勝たる代物はづさるゝなと當付けたる詞は憎けれとも嘘にてはなく小盜より中盜までにつけたくせ是非に不及一心不亂押肌脫で打も打たり寅の刻より日の出の卯の刻迄に三十五貫百に働き八貫分運次第八貫より三十五貫は心と目利の勝負たり今此勝負を思出せば播州一ヶ國より中國をどちらか八ケ國を手に付んは運次第八ケ國が手に付て西三十三ヶ國は心と目利と人の和也蜂須賀一打うつて見よと笑を含し秀吉が此一打の下知蜂須賀彥右衞門が一六勝負の工夫のすへ終りて天下の某を開きし運評定とは後日に思ひ知られけり太閤毛利征伐の事因云太閤が毛利を討し時信長公本能寺の變起來りしかば毛利へ和談を申入しに小早川等始終太閤に敵し難きを計り和睦せしと諸書に皆いへども事情に於て測れば未信し難き事あり然るに魔釋記載る處にて見れば大意は同じけれ共其間の事情尤詳にして信ずべし其說に曰魔釋記卷之一荒木攝津守囚小寺官兵衞條備中高松の城を攻らるゝ云々官兵衞口利者なれば約束堅くしてこそ歸りける其夜半はかりに從京都飛脚來て今朝上樣を明智が討奉りて候と申狀をぞ捧ける云々秀吉流涕打伏し給ひしがかつはと起て某も左樣存る扨天下の取樣は何とすへきと仰ければ官兵衞申樣今朝信長公を明智が討奉ると注進七十餘里の道也是を一日半夜に來る事天の見へて候毛利殿と和睦の手つかひ拍子合にて候此事中國陣へ明日中にも聞へ間敷候明朝人質を請て後は此儀毛利陣へ聞へたり共變替は不可成左にて先明智を可追討御後詰を可賴通被仰急に登り給ふべし云々其夜明ければ官兵衞は隆景へ使者を遣し昨日申談する通人質早々被成御渡候へと申入たりければ晝過迄延引しける此事毛利殿陣へも聞へしかば毛利一門家老共集りて被相談ける其中に吉川被申けるは今迄人質を渡さぬ事にて仕合なれ最早天下は此方の物也羽柴浮田に人質出せと可申其に異儀に及ぶならば大勢爰に集相こそ幸なれ推掛て可打果と申ければ隆景被申けるはいや〓〓さに非ず勿論天下は此方にてもあれ未だ信長の御子三七殿お茶棧有其上越前に柴田甲斐信濃駿河遠江三河尾張美濃近江伊賀伊勢大和河內攝津に松平瀧川前田中村丹羽木村其外歷々衆爛柯堂基話卷之五