爛柯堂基話卷之五奉らて侍ひける帝和泉の國に到り給ふてひねといふ處に在ますいと心ぼそふてかすかにておはします事を思ひて悲かりけりさてひねといふことを歌に讀めと仰こと有ければ此良利大德故〓のたびねの夢に見へつるはうらみやすらん又ととはねば旅寐といふにひねといふ名をかくしたり此歌新古今集に入るとありけるに皆人泣てえ讀すなりにけり其名を寬蓮大德といゝて後迄も侍ひけり大和物語按るに延喜中高野熊野抔へ御幸の事見ゆれば此時の頃にや寬蓮法師圍棊の事寛蓮法師を大裏に召して常に基を被遊ける延喜帝は寛蓮に二つ置き給ひける一時金の枕を賭に遊ばしけるに天皇負させ給ひければ寛蓮其御枕を賜て退出るを若き殿上人いさみぬるをもてうばひ取らせ給ふこと度々になりぬ然る後又天皇負させ給ひ寬蓮其御枕を賜て出けるを前の如く若き殿上人數々追來て奪ひ取らんとする時に寛蓮懷より彼の枕を取出し後町の井に投入れつれば殿上人皆去りぬ寛蓮は躍て退出にける其後井に人を下して枕を取上て見れば木枕に金箔を押たるなりけり早く實の枕をば取つて退出にける尤も賢くかまへけり件の枕をもて仁和寺の東に彌勒寺を造りける天皇も謀られたりと笑はせ給ひけり此寬蓮内より退出て仁和寺へ行くとて西の大宮を行に柏の袴着たる女の童來て白地にこのほとり近き處に立寄らせ給へ申すべきことの候といひければ寬蓮きゝて誰がいふにかあらんと怪しく思へども此女の童のいふに隨ひ車をやらせ行土御門と道祖の大路とのほとりに檜垣しまはしたる家あり女童こゝなりといへば下りて入ぬ見れば賤が小家なれ共由ありて住みなしたり〓げに簾几張かけ渡し棊盤棊石の笥おかしげなるをすへ其傍に圓座ひとつを置たり寬蓮よりて居たれば簾の中に愛敬つきたる女の聲して寄らせ給へと謂へば棊杯の許によりて居ぬ女の曰只今世に竝なき棊を打玉ふときけば何許り打給ふにかあらむと究て見まほしくて申入侍りぬ父にて侍りし者少し打習へ〓へ置て失せ侍りきとて盤のもとに近く寄りぬ其間に簾の中より空燒の香のほのめきいで女房とも簾のそみ合たり其時寬蓮棊石の笥を一つとりて今一つは簾の中へ差入れたれば女房のいふ其儘そこに置給へあらはに出て爭か恥敷打申さむ寬蓮聽て尤可笑くも云ふもの哉と思ひ棊石の笥を二つながら前に置きて女のいはむことを待たり然るに凡帳の綻より細く削りたる木の二尺許りなるを指し出して丸が石は先づ爰に置き給へといひて聖目をさす夫より寬蓮も石を置に女の打べき手をば木を以て〓ふる儘に打ちもて行程に寬蓮が石皆圍み殺さる寛蓮つく〓〓と案ずるに中々手向すべくも非ず稀有の事なり人にはあらで變化の者なるべし爭か吾に敵手すべきものも覺えぬに今此樣にうてるを凡者には非じと恐敷思ひて馴近づき物言べくも思はぬに女は少し笑たる音にて又やと云へば佗敷て尻切も履もはきあへず逃て車に乘りちらして仁和寺に歸り院に參りてしか〓〓の事候つると申ければ院も誰にかあらんと訝敷思ひ給ひ次の日彼の處へ人を遣して尋られけるに其家に人なく尼一人居たり其に昨日在しつる人はと問へば尼の曰此家は五六日東京より方違への人とて渡り給ひたりしかど夜前歸り給ひにき此家には筑紫へ居りき夫を知り給へる人にて來り給ひけり何處に住せ給ふ人とも存じ侍らずと申けり時の人いひけるは爭か人にてはあらじ寛蓮に會て皆殺すべき定めて變化の來りけるならむと疑ひける如佛坊圍棊の判せし事建長五年十二月二十九日法深坊の許に形部坊といふ僧あり彼とふたり基を打ける程に法深坊の方の目一作りて其上却を立てたりければ只には取らるまじといはれけり形部坊云目は只一なり刧ありとても