爛柯堂基話卷之六にも三陣の陣頭となりて數度の高名して威を振ひしが今は年老て而も眞衡が威德父祖に勝れ一家の輩悉く從者の行跡をなしける程に秀武も同じく家人の內に催ふされて此事を營む樣々の事共したる中に朱の盤に金を嵬く積で自ら之を持ち庭上に歩出て雨打に跪て彼の盤を高らかに頭の上に捧てゐたりけり時節眞衡は五條の君と云奈良法師と圍棊を打て居たりしが痛く打入て曾て是を知らず稍久しく時も移りけり秀武は老の力竭て腕も痿へ最苦敷なりぬ心中に思ひけるは口惜しき事哉譬へば果報の勝劣にて主從の如き擧動をなす共我正敷一家なり而も年老たり髪を握り哺を吐は古の道也眞衡誠に道を知らば疾出て可逢に斯迄腰膝をかゞめ身を苦めて庭上に跪たるを久敷見入ざる事の情なさよ其身誇て我を侮るやすからぬ仕業也此上は思ひ斷ぬとて持ちたる金を抛散らし門外に走り出て數多昇せたる飯酒皆下部共に贈て唐櫃は門の前に棄置鎧一縮して馬引寄打乘郞黨共に物の具せさせて本國にぞ歸りける眞衡は圍某果て斯と聞大に怒り正なき者の所爲哉我斯と知て對面せざらんには無禮也我夢にも不知例へ少しの誤ありとも當時眞衡に對してかゝる擧動こそ奇怪也扨は秀武思ひ立事ありて眞衡に耻辱せさせむとの計ひなるべし得こそ其儘差置間敷ぞ兵を催し秀武を可攻迚軈て諸にふれけり眞衡軍勢を催すと聞へしかば六郡の內は云に不及譜代恩顧の輩雲霞の如くに集りけり日來穩なりし六郡上を下へと返しつゝ資財を山野に運び老弱は東西に逃迷ひ騒ぎ訇る事計なし昔し天竺の國王圍基に聞を誤て三學の沙門を誅し今奧州の眞衡は圍棊に禮を忘れて奧羽兩國の動亂を招く吁佚遊宴樂の禍を招く事甚し古今其害如是これ後三年の亂の根本となれり前太平記淺野長政黑田如水朝鮮にて圍棊の事文祿壬辰の役大明の和議僞によりて相破れ大閣激怒し給ひ晋州の城彌攻拔べき由にて肥前名護屋より淺野彈正少弼長政黑田如水軒孝高を朝鮮ヘ被遺兩人渡海して台命の旨爲可被相達三奉行を旅陣へ被招しかば石田增田長束早速參向ありける處に淺野黑田某を提て黑白を竝ふる最中にて急度上意を不被達奉行衆立腹して被歸ける彈正如水大に迷惑し斷りを以て重ねて被招しかども返答もなし兩人彼の陣に行向て上意を伸んとせらけれども三人ながら不被出合兩人すべき樣なく自餘の諸將へ台命の趣を申置き旅陣へ歸りける右無禮の次第三奉行よりありの儘に言上申されしかば太閣御立腹にて兩人は御勘當被成淺野を毛利黑田鍋島にお預ある鍋島家記按るに圍基に心を入れ事を誤ること不少と雖も諸將の中にても淺野黑田は深智の人也何か不慮のあるなるべし如水軒大量にして深謀遠慮あるを太閤に被忌自ら智を晦まして專ら身を保つ事を謀りしと聞ぬ淺野黑田朝鮮にて圍棊の事にんしてしが其後一書を見たらに排除にして頗る事情を得たりと謂ふべし肥前の名護屋より淺野長政黑田如水渡海し朝鮮の都在陣の諸將不殘東寧へ引取らせ太閣上意を可承との先走りの飛脚來りしかば字喜多秀家は御名代の大將なれば居ながら待請んも如何と途中迄出迎ひ三奉行の面々へは東寧に於て御口上申被渡よとて秀家淺野黑田同道し東寧へ引返しける字喜多は陣屋に入て休足ある然るに細川忠興と如水は相棊にて常に日本にても棊の朋友にて懇志故細川陣屋へ到り一應の口上濟直に黑田淺野共に忠興へ對し某は如何々々とありし故朝鮮へ來て一度も棊は不仕と申さるる故に長政如水などは渡海の船中にて打續け來り候某盤取寄よとて早々基盤來りしかば先づ淺野黑田殊の外棊好故何か打掛る忠興は扨々日本以來久振の參會なりと喜び圍某の半なる所へ大谷石田增田の三奉行只今此處へ到着し黑田淺野は何れにぞと尋々細川が陣所にて圍基ある由を聞て大切の上使に來