爛柯堂基話卷之六り我々方へは東寧迄引取木曾退治の上意を申談べき故取物も不取敢來る所圍棊どころにては有間敷と其身の好まざる事と奉行の權威を面に顯し直に案内にも不及細川陣所へ三奉行打連入來し所折節長政如水は大石を取るべし取られまじきと競合の最中打しこりたる故其處に誰が來るも知らず挨拶にも不及常に心易き同志基の上にては雜言をいゝて法外の交り何かと云爭ひて打しを細川も又基の友達なれば夫は是はと雙方へ會釋し三奉行の着座せしも知らず三人は共に基を打罷て上意を申聞て談合に及ベしと差控へし所一向會釋もなし無作法の趣奇怪に思ひし中にも生きぬ石田ぞそれなら殺せ成程生にくい石田捨ても增田又外にしてやる事があると麁言をのゝしりければ石田治部少輔は憤り何樣仔細ある事と思ひしかば大谷增田に目くばせして靜かに立て歸りけるを知らず能々打しこりたる棊好の衆とぞ見えにけり三奉行は憤りたる顏色にて立けるを細川が家臣斯と披露しければ黑田淺野細川も共に驚き是は〓〓と基を打やめ夫追掛よ御歸候へと追々人を走らせけれ共最早三奉行は宇喜多が陣所へ其途五六町も打過て見へしを使の者共追付右の口上を申御立歸り被下かし上意の趣申談すべしと申せしかば三奉行の中にも石田は聲を荒らげ申しけるは各方の棊は急なる義と相見え申定て太閤被仰付にて御打可有候へば緩々基を被打候へ此方共は木曾退治の評議急ぎ候間棊の相談には不及と欺き笑らひて立歸りさりしかば追々五度迄使を立し處邪佞なる三成なれば彼是と步行廻りて出合ざる樣にせしかば三人の衆中は是非に不及細川忠興の了簡にて奉行の者共權威を揮ひて我意に任せ候仕方殘念千萬也定て名護屋へ讒言の種と相成べしと被申所へ親々の某會にて三奉行方にて不屆の噂致由聞付て黑田甲斐守淺野左京太夫も驅來て細川へ對談し是非に不及事也此上は後日如何樣のことあり共三人一所に身上にかけ申合すべしと早々殘りの衆中へ上意可被仰渡と觸廻しければ第一番に福島正則加藤〓正蜂須賀鍋島入來りて夫より段々大小名上意承知の爲參入ありしが如水軒は〓正と懇意に申合され候事故〓正聞れよ能い手を盡し某にて身上を失ふと見え申と被申ければ〓正も其沙汰を聞ぬしかし隨分棊の中に侫人を打亡し能手を御工夫候へ〓正抔は棊は下手に御座候へ共如何なる上手の侫人出頭にて楯はつくまじと存候すはとも云はゞ此方より先を取るにしくはなしと同意の挨拶然れば大小名中へ上意の旨黑田如水淺野彈正申被渡各退出しける後迄も三奉行と對談なく是朝鮮陣中黑田甲斐守淺野左京大夫は親々の儀を三奉行が申しふれしを憤て何卒此意趣時節も可有歟と思案せられしかは朝鮮出會の每夜細川加藤を始として懇志の衆中には石田を憎み亡すべき相談ともありしや慶長五年石田が不運の初めとはなりけり其翌日石田方より書中を以兩人上使として到着の所數寄の基計打て御用向をば脇に致し乍去此方三奉行共取計ひ木曾退治油斷なくと申送りしかば太閤甚御腹立ありしかども黑田如水は筑前守盛り播州打入の節より如水も官兵衞さかりより信義を盡し手前の居城姫路を差上秀吉の居城とし其身は黑田村へ引籠不自由を被致し其節秀吉直筆に子々孫々雙方の儀見續べし少も秀吉方より疎略申まじとの證文まで被遣候程の筋目也大名中にても武功第三とは下らぬ人なれば何とも罪科申付け難し又淺野彈正は太閤の由緒甚しく重き人なれば未藤吉郎と申漸々士分になりて薪奉行を致し切米取の藤吉郞妻を求がたく尾州三州に至り筑阿彌が子供氏もなき匹夫といふ事を人々存ずる故藤吉郎を聟にせんと云ふ者なし然る所前田又左衞門利家犬松といゝて信長御小性藤吉不圖執心し兄弟の誓約被致けり然ば此犬松の在所前田村の近郷たりし淺野村の〓士又左衞門長勝と申は一村の長と云筋目宜敷其先祖は禁中北面の家にして朝廷に仕へし所承久三年後鳥羽院關東を亡し給はんと計ひ給ひしが鎌倉の武威盛んにして七月九日隱岐の國へ遷幸し奉り此節文武の輩悉く遠流せしは其數を知らず其節北面の中にても武衞た