爛柯堂基話卷之六りし源の長行尤御計略の節勅定を奉りし事度々也し故北條義時怒りて尾州淺野村へ流し畢ぬ此節より村中尊敬して子孫は淺野の號を名のり代々百姓に類せず然れ共仕官も不望して除地の村高三百石を以て人馬豐かに暮しけり此人先妻の腹に於侫といふ娘あり姿醜くして嫁義一向出來ず腹がはりは淺野彌兵衞長政とて今の彈正少弼なり然れば此利家長政とは緣者の故美ならず共緣組し玉へとて利家媒なり秀吉も詮方なく我にくるゝ女房近國になしと思ひければ醜女にても苦しからずとて呼迎ふとも其筋目あれば秀吉立身に隨ひ疎略なり難く又左衞門は念入たる生れなれば藤吉郞不行跡なれ共娘醜女なれば遣すべし永代疎略なく又彌兵衞方へも聊疎略有間敷證文を取り女房を迎へ取りし程の事也是に依て只今何樣の事あり共淺野家へ疎略ならず太閣御前にてお噂ありしは人間の好むまじきは基なり急用を忘るゝもの也と計被仰其頃彈正へも如水へも御懇志相替らず度々あて言被仰し故一入子息方石田を憎しとかや是を關ケ原記に朝鮮より初ると申し傳へしとかや以上扶桑三國誌按るに右の記實錄なるべし石田が侫好にして諸將の功を覆ひ隱し權威を揮ひし樣子武功は無之して諸將の上に立善類を殘害する事共諸將共平常憎みしも尤所謂あるべし豈朝鮮にて圍棊の日より怨恨發したるにはあるべからず吉村又右衞門棊によりて人を斬殺せし事福島左衞門大夫正則が臣吉村又右衞門一日傍輩が方へ見廻しに兩三輩寄合棊會のありしを又右衞門見物して居けるが亭主の方へ少し助言を加へしを相手心に掛て棊の事に武功の者助言御無用々々々抔とひたと痴言を云けるを又右衞門心に掛て其席終りて何も退きける節又右衞門は小便をする體にて彼相手を待合せ殘りの連は先へ返し彼者に詞をかけ士の武邊珍からぬ事也先程の事覺あるべしとて切掛難なく打とめ直に總門まで立出しが思付て又右衞門程の者が止めを刺さで退きけるよと後日の批判も如何なりと立戾り心靜かに止めをさし退ける彼の相手は其家中にて劔術の師範者なりしかば門弟中多く口々へ手分して追掛しかども出合ずして終に又衞門は退きぬとも又は比類なき武功の者故不追して逃せしともいへり此事正則歿後本多美濃守へ被招し前後明かにせず由井正雪か宅基會の事丸橋忠彌芝田三郞兵衞兩人正雪が宅に集り樣々の評議有之けるが先づ正雪申けるは段々謀反の基は相定り此上異論あるべからず只今次には一人なりとも味方を招き候事肝要也長曾我部は近來の大名其外諸家中の餘類定めて多かるべし此段思慮あられ候へといふに芝田卽硯引寄せ一通の廻文を認ける其文に云長曾我部秦の盛澄謹而申さく夫君父の仇には倶に天を戴かずと謂へり然るに我々幸なる哉紀州大納言賴宣公のお賴により義兵を擧げんとす爰に望みを企て事既に半に至る誠に人間木石にあらず君臣の義未だ地に墜ざれば忠の一字何ぞ休せん若忠義有之輩には竊に馳集り力を合せ譽れを殘すべし恩賞は事成就の後宜沙汰に及ぶべしとなり忠彌この書付を受取家來有竹八藏を使として土佐國へぞ遣はしける八藏は長曾我部の普代の者なれば四國の内爰かしこ尋ね廻り此の趣を相達す長曾我部の餘類三千人ありけるが取々評議して二千餘人は一味同心の義を言合追々江戶へ可能出旨をぞ返答しける偖又一時正雪忠彌に申けるは奧村八郞左衞門といふ者其氣質賢く勿論武術も勝れし者なれば入魂に申合せたく都て貴公が人に交り給ふ事只一遍の付合にして入魂薄し此以後何卒奧村を私宅へ同伴し給はれ是を謀るべしと云ふ之に依て忠彌は毎度奥村を誘引すれ共奧村は所存ありて容易に來らず其後正雪私宅にて基會を催し奧村殿御同道にて御出被成べく由を忠彌方へ申遣しける忠彌心得て正雪方よりの手紙を