爛柯堂某話卷之六にも許蒙たるは我意に任せ難しとて之に應ず安兵衞自ら苗子を以居る事三年彌兵衞は大に歡び安兵衞に遇する事厚し安兵衞も堀内氏廣澤先生に謂て曰予養父の志に感ず故に養父の苗字を續べしと云此由を彌兵衞に〓ぐ彌兵衞大に悅むで君公に申す君公甚感ず依之堀部安兵衞と云安兵衞は越後長岡の產牧野侯の藩中より出たる人也東都に來りて立身せんと思ひ御旗本の長屋を借りて住す松平左京太夫殿藩中に伯父あり貸其世界分左京大夫殿星数教に圍棊の爭論より起りて高田馬場に於て打果さんと約し曉天に伯父安喰違なり後澁谷へ移る兵衞が宅に到りて我朋友と喧嘩に及び只今高田馬場に行なり汝に妻子の事を託すといふ安兵衞曰予壯年にしてかゝる事を聞何ぞや妻子にあづからんや妻子は外の親類に能にはからふべし早や行給へ我も共に行べしと湯漬を食ひ尻からげて伯父を先に立て行けり頓て高田の馬場へ到りて見れば敵人兄弟三伯父六人草履取一人都合四人なり安兵衞は伯父甥二人なり十餘歲敵方の曰當人の外助太刀無用と約し既に當人同志切結とひとしく敵の兄弟草履取三人刀を拔て掛る故安兵衞も刀を拔て敵の次男の左の小鬟より右の願を掛切さけたり同く掛る其弟をも同じ太刀に切倒す草履取後より安兵衞が腰をなぐる幸に身に當らず事果て後帶を解て見れば帶の結目切てありしと也三人を切倒し見れば事始し所より二十間程隔りしと也扨當人を見れば兩人手を負て兩人土手に寄掛りてありしを敵を引提て伯父の面前に來り敵を斯はからふと云て頓て首を打て見せたり伯父の手負を肩に掛けて退きたり高田の邊に諸侯の下屋敷と覺しき所の垣を破りて內に入て木小屋の內に伯父を入て置たる所に屋敷廻りの足輕來りて是を答む安兵衞次第を語る足輕聞屆て甲斐々々敷肯て曰手負深手なり活べからず自殺せしめて可なりといふ卽安兵衞伯父に告ぐ諾す故に伯父を介錯す足輕早桶を求め來りて死體を納め下屋敷の內に兩人して埋めたり賤者もかゝる情ありて義理に明かなる人もありけり扨足輕の住家に往て湯あみして飯を喫し最初の戰場に往て見るに田舎馬の出る頃なり時に六十餘の老人駕籠に乘て來りたり茶の縮緬の羽織に永樂通寶の紋付を着し死體を見て歎じて曰兄弟三人及奴僕一人同じく敵の爲に害せられ敵には手負もなしと見ゆるなり返す〓〓も殘念なりといふて落淚す此老人は正敷三人兄弟の親なるべし此件世に隱れなし故に彌兵衞も安兵衞を望たるなり按るに此記は實錄にして世俗傳へる所は小異あり元祿の頃まては尙武の風遺りて圍某の口論より事起て打果し四五人の生殺しに繫る事斯の如し可愼可戒杉本九十郞切腹の事加賀の國に杉本何某とて一人の微賤の士ありき翁其人を久敷相知しが其子九十郞と云者十五歲の時父は東へ行役しける其跡に年輩同じ程なる近隣の人の子と圍基の上にて口論しけるに九十郞怺へず刀を拔て相手を一太刀切しをかたへの人取さへけり扨其事廳に達して後相手の創療治さすべしとの事にて其間九十郞は官長の家に預り置しに聊か臆したる氣色露程もなく言語振舞落付たる中々年におはぬ樣に見えける日を經るに相手終に創にて果ければ九十郞も切腹するに議定しける程に其前夜主人名殘を惜しみつゝ酒肴色々用意してもてなしける九十郞母への文など認置て主人に委敷謝詞を述て此程附居たる家人へも夫々懇に暇乞して偖云けるは面々へ名殘も惜しく候へ共今宵は明る迄も語り度候へ共明日の切腹の時寐ふたくては如何と存じ候得者先へ臥り候へし面々は是にて緩々と酒すゝめられ候へとて奧に入て高鼾して寐ぬるを聞て跡に居たる人々感じ合けるとぞ又の日勤てよき程に起出て沐浴し衣服を改めつゝ用意心靜にして其後切腹の席へ出て檢使に一禮し心能切腹しぬ其有樣從容としてやすらかなりしは如何なる勇烈老功の士たりといふとも是には過ぎまじと見えしとぞ其場に有合し人々年を