爛柯堂基話卷之六經て後も語り出して源落さぬ者はなし此事起りし始に翁彼が父の許へ文やりて知らするとて九十郞たとへ切腹するに及びたりとも此程のおとなしさにては未練なることあるまじ其は心易く思ふべしと言遣はしけるに後に聞は父其文を人に見せ斯は言ひて來れどもわらはへに灸するに前は人にすかされて思ひの外に大人しく火を取りて向へば其きはになりて俄に泣出して前の言葉には似ぬぞかし我子も未だ年足らねば潔く切腹したるといふ便を聞く迄は心元なく侍るといひしとて古人いふ如く此父なくば此子あらじとなむ思ひ侍りきとて此事を今申出で侍るは九十郞が斯くばかり年にも似ずして健氣なるを世に聞傳ふる人もなくて果なんは餘り不便に候へば申す事にて侍る其上今翁を初め言論文字にて古人の眞似をして其實の顯るゝ時に至りて日頃のあらましと違ひありなんは是ぞ誠に童の灸にて侍るべし多年學問して儒者と云るゝ身にて彼の童蒙無知の九十郞の覺悟にさへ劣るべきことかはいと恥かしき心ならずや諸君も常に爰に察してよく〓〓省給ふべし駿臺雜話按るに九十郞が一朝の怒不堪命を捨し事可戒可惜可憐又翁が心を用ひ書遺し給へるありがたく感べ原甚四郞諸角助七圍棊に付口論竝信玄捌の事武田信玄天下の計に付十人の士大將を集十ヶ條の成敗の式目を定む土屋右衞門尉執筆にて書之しむ商議最中の處目附より申上るは只今御屋形百足の間に於て原甚四郞諸角助七喧嘩を仕出し雙方手負ひ引分申候尤末々の族に候はゞ晩程御耳に達すべきの所御當家歷々の衆に御座候へば宿老衆は御前詰なれば誰あつて取捌き難く候に付斯の如くと訴へたり信玄元來士を愛する御心深く殊に忠節の人々の子孫をば大切に被成候故先評定是迄なり屋形に於て詮議とて御座を立せ給ひけり斯て原諸角兩人口論の意趣吟味をば御舍弟逍遙軒御甥左馬介兩所へ被仰付尤聞屆られ了簡の調は穴山伊豆守入道梅雪齋と被仰付目付衆偖又一座の傍輩雙方の一族武者の間に於て吟味有之然るに原甚四郞は美濃守が次男にて組も御附被成騎馬三十五騎足輕百人被預三千貫の所領にて未だ若輩なる故物大將は不被仰付御使番にして百足の間へ相詰るは武田家にて古今例無之結構なる事と皆々羨みぬ是偏に親美濃守一代の働き十七歲より御奉公仕手疵を蒙る事五十三ヶ所御證文計三十八度頂戴せしは無雙の働き故なり强勢の荒者御陣の御供しあんだに乘て歸ること三十八度九死一生の深手を負ふと雖も平癒して少しも不忠の心無之如斯なる故美濃守總領をば御意を以て橫田備中守が聟に被仰今の橫田十郞兵衞なり嫡子を他家へとの御意は不計聞時は信玄御無理の樣なれども美濃守が心に十郞兵衞若年より漫行者にて〓訓しても手に付ず次男甚四郞を家督にして存念の趣連に御耳に達せし處十郞兵衞事親の心をはかり我氣に入らずば弟に繼すべし大小二腰差て渡らば唐迄も行くべきと云を聞し召流石大功の美濃守事嫡子其身また健者なるに他家へ遣はすべきは惜しと思召美濃守へ御直々に御所望其方男子多し橫田備中守娘ばかり持て男子なし信玄媒なりとて十郞兵衞其頃彥十郞と申たるを彥を我に得させよ我備中守へ遣し度しとの御意故流石に美濃守も默止難く不行跡の若輩者御用にも難立また橫田にも不孝に當り候はヾ美濃守一分までも相立ち難しと御斷申上けるを信玄御笑ひ被成左ればとよ其方より遣すにこそ信玄が貰ふて橫田に遣はすに何條左樣の所に相違あるべきやと直に支度被仰付橫田へ下さる其節橫田も原も未だ小身にて原美濃守は千五百貫橫田備中守は千二百貫たりしを彥十郞を遣はされしとて三百貫の御加恩あり彥十郞か聟に參る持參なりとの御下心實父方と格は同じ物大將知行も同じ方なれば彥十郞兄弟の挨拶もよく御祕藏の原橫田互に不足なく相勤れば畢竟弓矢の强みとの御工夫は實に名將なり兩家共に之を難有