四十八に敗ぶるの日本と、退縮に亡ふるの露國は、實に兵火を避けで相立つペからす、諸公は盖し露國に對し滿州徹兵の約を履まさるが故に、結局の手段を取るものに非るべし、露國は早く列國に對し、其東方經營に於て約束を無視し、而して皇國に向て至大なる武裝を擬して戰を挑めり今露國が平和を聲言して交戰を延ふるは戰鬪中の小進退にあらずして何そ吾徒は前年芝罘定約日〓兩國使會見の際に於て、露公使其帶劍を脫し之れを我か國書の上に横たへ、我國使を辱しめ、我國權を奪い、而して其主張を貫きしを聞き、露國挑戰の初期となせり、爾來殆んと十閱年、當局の時事を處するに拘々戚々として、内國經濟の遂に今日に至るを察せさりしを恨み、諸公の續いて內閣に臨み、以て滿州徹兵の期に入りしに際し、深く望を諸公に屬し諸公の今日の機に乘し、大賊を殪して、內外の治道を振興するを待つ者なり諸公猶ほ克く芝罘定約の當時を記憶せば應さに兵氣を遲疑に阻喪せしむること莫る可し、然れとも諸◎公の堅く强硬を聲言して決行に猶豫せる或は他の與國の仲◎裁に嘴を容るるの餘地を爲るに至らん吾徒は之れあるの遂に戰機を逸する兆をきかを憂ふ吾徒は今ま二三大臣の交秩、國費度支の變異を以て諸公を責めす、寧ろ諸公の之れに處するに毅然たらさるを憾むなり、卽ち諸公の元老に荷する、事每に禮して重からしめ、以て其自家の功業を立つるを便にし難助の閣僚を遠けたる如きは、却で吾徒の之を首肯して諸公の其功を就す漸く近きを慶するなり、然れとも諸公の過巧なる、時に影の形に隨ふ如く、人をして知らず知らず疑を存せしめ、山縣侯門庭の帚痕拂へは又印し將さに藩閥有終の名譽討露の大功を諸公の手に收むるに於四十九