附錄らce近も、一年八月朔日はシを近江阿甲匁畢太兩郡止きちにをいる二方三百石成あとへらを大津坂本兩城を領し、京都ろ諸司代を6と名、專ら政務をはろさとる、十二年太間、織田信雄と矛盾みをよひ、尾張國リ進發比とき、軍中比諸事を(りろさとを、十三年和泉紀伊兩國〓兵を出をみよて、其事に∞つろれ閣八月二十三五近江岡高島郡井内みをいるギ千百石を加增あり、十四年太閤、東照宮と和議あふ〓とき、使をうけを〓ハりて往復し、朝日姫君太閤妹御入與此ときも、供奉し〓濱松城〓いとり、是よそ東照宮比春遇をろうぬる、十五年太閤筑紫征伐ろとき、命をう多で軍事成ハクり、九州悉平く、其後肥後國〓をいて、凶徒蜂起きしりは、長政奉ハりてあをを鎭を制法數條をささむ、後あ〓國を佐々陸奧守成政〓あさへられる比ところ、國民等其苛政リくふしミ、亂をたこそふよそ、成政をよひ國中北士をめしあ、對決をしめられ、ゑりふり成政の罪あきらかなりしろハ、長政命成うきて彼を自殺〓しめ、ふさゝひ彼國まれもむき國民等を安撫を、九月五日領知を轉しす若狭一國をあるハり、小濱〓C仕を二十八日近江國志發郡坂木处して一千五百四十石餘ゐ地をるさへらを、十六年從五位下彈正少弼に敍任し、十八年正月台德院殿、洛リ比そらせとぬひ、太閤り御對顔あり、なろく長政の家り渡御あてしろハ、御膳を獻を、後太閤、小田原り進發あらむとく駿府城りいさふ、むの時石田三成虛說をりまへ、東照宮、北條家と御志を通したまふ比よしをさゝき、左右なく城み入もとをとゝむ、太閤ゑとらく猶豫あるみよを、長政もとを聞あ、お比事いりそりあま、信したまふへあらにといさめをれさ、太闇たちまち心とけて入城あて、されらろ事最御旨りりあふ、又太閤北行軍比勞をおにしめし伊奈熊藏忠次茂して、富士川〓舟橋をクをしめ、諸軍勢をりささせたまふ、時り三成又もれ事みより、太閤〓申旨ゐりしクハまと疑心を懷く、長政諸勢に先とちて舟橋を渡り、人成しあ其よしを〓しむ、太閤大りよろこひ、とを渡〓て、をゝちに沼津城りいる、後軍識あ李て、東照宮ハ三万餘騎を引率しるまひ、箱根り北予をて、山中ろ敵兵を討ゐまふへきり治定も、三成まと、みろ事をはゝむみよを、長政もゝんてろをとあらそふ太閤もをを聞て、長政の申ところよ同意をらる、五月男幸長、木村常陸介重高等をね〓、武藏國岩槻城よれもむく、も比とき東