附某を引て、秀次り陣營會津り至らんとも、時り秀次比いとく、長政わり命をうきもして、政實をゆふきし事無禮なりと怒と、長政に命して、中途みしず政實を誅をしむ凱旋比ゝち、南部家比所領恙かりとし事い、長政さきみ政實との約をせりへも、言上をし旨あるによりてか〓、二十二日若狭國北うち、けきみ藏いりとかりし地、六千五百石をあさへらる、文祿元年朝鮮征伐比時、石田三成、增田長盛等とれあしく、渡海して軍事を謀る、先手比諸將もてみ彼國比都を攻破で、王子をとりあよもまいへとも、明國ろ援兵數十万襲む來なり故み、兵粮乏しく在陣クあひりさきみよて、ぶさんかい釜山浦近く軍を還も、然る〓明國、沈惟敬をしあ和をおむしクハ、長政等名護屋比陣營リ至でて、お比よしをりく、太闇こをを許容あてといるとも、いまさせ北事とゝ壮えも、明兵日々にくハゝを、後援ろ將渡海をさてしクハ、先手北諸將加勢をおふことゑきりあて、まゝみをいそ大闇、東照宮をよひ前田利家等と日夜軍議あて、時り太閤み(りろら彼國り玆しわさをて、征伐をんとあ季けれり、諸將あへ〓口をむらくも比ふし、長政むとりいさめていてくミつりら渡海あらんそ、國家北亡争へきえしぬと、今日船を出しあるハゝ、明日ハりあらも國々り凶徒れこるをし、云ろらハ進ミてき彼國をう(り事あととを、退きてそ賊徒を征きむ事かさのらん、ゐを危亡北道ふりと、大問聞て大り怒て長政を引あて禁籠をイめんとも、東照宮亥ゐてあきをとゝ冬、長政をして宿所りろへらしめたまふ、二年薩摩國〓梅北宮內左衞門某一揆をれこし、肥後國を掠め、熊本城を襲むとれのよし、にをあてけをハ、太間大り驚き、諸將をあつたて、評議せら德、長政さ肥後國乃案內者たるにより、まり彼をばろいもへしとく、それいちたし出さ終、太闇仰あて多なそ、先よ汝あ諫めしところ、今日をさして其然な事をゑを〓、そみやりは彼國よれもむき、賊徒ろ虚實をうかゝふるしとなり、はさ男幸長を大將をし、本多忠勝を副將として、發向をしめらるゝ比とこ派凶徒もてに諫り伏もるのよし、は多來を多殺さ、幸長お軍をとゝめらと長政り命して、肥後國ろ事を沙汰をしめらる、十一月二十日大間よア、若狹國を改め、甲斐國を長政父子り賜ハ〓、一一十二万內十四五千石北うち、一万石ハ公料として運上をへし、其餘十六万石ハ万石れ軍殺三千五百人、嫡男幸長リ五万五千石ハニ万石〓無役、內千人、四万-万石ハ五千石九軍役無役、長政領