附かんさき知もへきむね、朱印をあとへらる、慶長三年近江國神崎郡北うちよをいあ、五千石を加恩あり後太閤病篤よをよひ長政をちりく召を、我汝と同胞ろ約をれし、共よ國家を治めんとそクをき、今我さ天下成掌にし、汝さ小國をたもてり、もききろそつるところな足、宏ろ於とも命おり、我をうらむことなろきと」いふ、長政クしもるまて、落淚よをよふ、まさ我百歲乃後、五老五奉行相ハクりて、國家を平安おらしめよと命し遺物若干をあとへらき、ふとゝひ石田三成とゝもり病床にめして、朝鮮在陣乃軍兵いまさりへらも、明國H兵、我死そる事を聞き、さへきりとゝむへし、十万餘比軍兵、他〓ろ鬼ときは、そ孔耻いふへクらも、亥とらく我死もお事を披露さそして、汝等朝鮮ゐ渡海し、兵を收をて歸國をよ。しー事ならもい、東照宮みはろりて、彼下知みたとろふへしとの遺命をろうぬふ他界比ゝち兩人後面國朝をうおもしく時り在呼み諸府より、島津其産点義記軍と戰ひ、大り勝利を得さり、不日に歸國をへき比よ~告あり、兩人をろあひて相待事數日、惣軍あと〓〓く歸朝をるみをよびて、諸將り太閤比遺言を傳へ、遺物をわクちあとふ、後三成等野心をけしそさミ諸將をあさらむ、東照宮に叛きをてまつるといへとも長政父子そ、むともら志を通しをきまりるろゆる〓、凶徒等の計策も終て事あらに、是よを諸將彼り與し、いをよ背きく上下穩ならに、四年夏り至て、三成等、東照宮り訴へ申多れそ、長政伏見よ居住きハ、國家比騒動やむ事あるるりらも、彼をしあ封地よ蟄居をしたたまふへしとおで、もゝよをいあ、をむ事を得をるいもして、武藏國府中に閑居をしたらな、もと三成等相とりてて、前田利長、國り在て叛心あり、土方勘兵衞雄久大野修理亮治長等も、東照宮を窺むたあまりる比よしをに多、長政もあをよくみをな北旨を讒をしによをやまとてかり、五年上杉景勝御征伐として、下野國小山り陣したまふ比とき、三成あ謀反比告あて々れさ、長政、幸長御供よあてしを御前にめさを、長政きをみやクよ甲斐國よろへま、台德院殿木曾路御進發をむろへたあまつり、そうてもと浅きもきあてまりるへし、幸長き我先陣たるへしとの仰をろうぬる、八月二十八日御書をさはひ、さ犯リ男幸長岐阜城攻ろとき勝利を得、まさ瑞龍寺比砦りをいあ軍功あてし事成仰下げを、かり台德院殿御出馬あらハ、いよ〓〓扈從して、意を添たそまりるるきのよ