附錄し命あふよより、則領知を發して、美濃國大井り至を、書をたあはつりて、あ比よしを言上も、九月關原北たゝろひよ、逆徒伏誅ろゝち、恩過いよいよありく、常にめされて圍碁比御相手よ加へられ、十年妻子を携へあ、江戶〓居住し、是より台德院殿比御亥さしみも、他よおとにし〓、玄そ〓〓茶席に候し、あるひ〓遊宴り侍し、まさそ居宅は渡御あてて、恩賜若干るリ十一年二月四日隱極武科、策陸國眞變抗波二郡年內りをいも五万をさはいて、十四年正月二十日神崎郡五千石北地、おとまて比ことく領をへきむぬ、御判物を下さる、十六年寛永系圓十五年まはくお、今、貞享をよひ今比呈譜〓あさりふ、四月七日卒に、年六十五、功山道忠傳正院と號を、紀伊國高野山北悉地院ひn常陸國眞壁郡傳正寺に葬るといふま葬る、室ハ長勝り女、幸長天正四年近江國坂本り生れ、後豐臣太閤〓近侍し、十七年四月從五時位下左京大夫り叙任を、四歲、数十十八年小田原陣比とき、父ろ兵士三千餘騎を率ね〓扈從し、五月父を共リ武藏國岩槻城り發向を、二十日本多平八郞忠政とともに、衆り先たちて大手口成攻破〓、橋ろうへにし〓力力nを、太閤大り其功を賞し、瀧川彥二郞忠征を使としあ、比しり多比刀脇指をあさへらる、東照宮よりえ、御使を賜いりて賞譽〓ろうふれ、文祿元年朝鮮征伐のとき、扈從して名護屋み陣も、二年十一月二十日太闇より、父長政をよひ幸長よ甲斐國をたまひ、幸長十六万石を領を、是年梅北宮內左衞門某一揆をくいた〓、肥後國多くは彼り屬にるろ聞冬あなりより、幸長發向しあ退治をへき比命をあうぬる時り太閤比請よよりて、東照宮より本多忠勝を添たまふ、もては筑後肥後北境北比關り至な北ところ、賊徒等誅り伏もる比よし、た多ありけきハ、中途より軍をのるし、又命をう多て朝鮮り渡海そ、時リ伊達政宗、長政と親しミあふろゆヘリ、幸長あうしろミとして、彼國りたもむろむゐとをこひ申さしりる、太閤其意を感して、此事〓ゆるされ、よてて政宗とれあしく、釜山浦り成いる諸將に かいり會をろくて西生浦リ城を率えふま正よ。後加靜治年とゝもり所キ比城を攻落し、生捕もまされ同し、四年和議なれりよま歸朝そ、慶長二年明兵朝鮮み加勢そときこゑ多〓も、ふさきひ渡海し、まさ西生浦を護マ、諸將と牒しあいをて敵兵をうり、是年比秋太閤在陣比諸將乃、征伐り怠