るをいあて、催促〓らるゝずいるとも擬議してもゝはき時リ幸長、毛利発元短田長政等ともよ眞先り車をそゝめて敵地をめくを達陽ヲ陣に、この地齋山をさる事吸十里にし〓大河きり、ふの屋リ物見社其く比ところ、十二月二十一日明國乃軍兵夜に乘しあ襲ひ來了、數百人をころし、早天りをよひあ、彥陽に來る、幸長物見比兵ろ殺さなゝもとをいクり、それとち兵を率ゐくいりといへとも、敵兵數万にして寡兵敵しクふきゆまを静山乃破みなもしろじとを時ま敢方比敵兵前略を述てさむ、幸.長大よぬるひ戰あ多く疵」をかうずり馬亥ふしもまと切をふらる、あけとき家臣龜田大隅高綱敵將をきるみより敵兵猶像も、其むまり城中に入もとを得きり、加藤〓兵衞某等かさく門をとつふといるとも、敵兵的ゐよ外郭を攻破てしクハ、大田飛驒守一吉、をよひ秀元り家臣宍戶備前守元續とゝもま二丸本城を守る、二十三日明北將李如梅、楊登山等、太手口り陣し其餘乃諸將さきり曾合しあ四方を圍む、時〓加藤〓正機張にありてものよしをきゝ、五百騎を率ゐ〓加〓をるにより、城中力を得て、晝夜命せき戰ふといへとも、漸粮をやしうして、雜兵等闇夜ままきれて城外ま出、死人乃腰兵粮を奪ぬよ至る、三年正月三日諸將數万騎を率ゐあ、明兵比うしろまきー、其兵十餘里ろ問リさゝぶ、敵將楊鎬あとけい どうを防く事あるハ正明日のとみな解て鹿州するあらんとと紋兵みをな聞、其夜よず走る者半に過たり、四日城中よりも兵を出して、北ふを逐事數十里まして、うちとなところ北首五千餘級、おゝよをいま幸長ぬさすか、び西生浦りろるり、十月諸將と共〓歸國をも比とし比冬石田三成等、東照宮り對したあまりそ、野心をけしそさむよより、幸長及ひ細川忠興、加藤〓正、福島正則、加藤嘉明、黑田長政、蜂須賀至鎭等七人、心を一ふして御味方となる、當時あきを七人衆といふ、四年三成等の事により、其さいきをむときあし、幸長等夜あとよ伏見北御舘り候して警固し、はねま東照宮比耳目とれる、五年景勝を征しをまふ比とた、父とゝもま供奉して下野國小山り辛ユ、時ケ三或る経反えきこ空ゐるよより般白御滯留さて、諸將と軍議しゑまふ比とき、幸長もゝみあ言上しあなそ、上方比諸將故〓をはあを鈞命りゑさろふ、をとひ其妻子彼地りありとも、其あゝろをうとりひあまふへクらずと、東照宮この事を聞しめしあ、御契約をむ