附錄をいを、いよ〓〓三成等を御征伐あるるきよ定められ、北ち御先手拔うきをるハりて上方り進發も、八月二十二日御先手比諸將木曾川をわさりあ岐阜城を攻むとそ、幸長ハ池田輝政とゝもふ、亥ハらく、軍成とゝめく城兵ろ押とれる時り敵兵にハクよ襲む來るよよを、輝政とゝもよ新加納川を渡り、木造左衞門某を擊てゐきをそしらし冬、大り勝利を得をて、お比とき味方うちとれ處此首千餘級、二十三日三成あ家人柏原彥右衞門某の衞るところ比瑞龍寺ろ砦をせむ敵兵出戰ふといるとも速りあとを破て、彥右衞門某の首を得せで、まさ敵兵五百餘人〓うちとる、後これら比軍功を御感ありて、東照宮、台德院殿より御書を賜ず、九月十四日美濃國赤坂圓山〓御著陣あマ、明日御一戰あなへき比ところ、敵ろ大軍南宮山り屯し、御本陣壮うしたよあとをこ、そし合戰ろ最中襲む來る事もあるるし、あらあしめも終ろ押ゑるへき北よした〓を成ろうぬり、池田輝政とゝもよ彼山比麓〓陣を、關原比合戰よ逆徒伏誅北ゝち、池田輝政、福島正則等とゝもよ、ね〓き〓う〓たまもりて、京師りれもむき禁裡を守護を、又釣命により、京都をよひ諸國比制札り〓、三人連署乃判形を加る、榜を洛中洛外よたてゝ、暴逆此者を禁を二十一日井伊直政等とゝもよ大坂城よむクふ、時リ增田長盛ハ豐臣秀賴を奉して本城よあて、毛利輝元き西城を守りて、和議をこひゐてまつるにより御許容あり、二十四日輝元城を去〓退きしろハ、幸長等先西城ふ入あ、東照宮北台駕をむりふ、十月軍功を賞きられ、領地をあらため、加增ありて紀伊國よをいて、三十七万六千五百六十石餘を賜ひ、和歌山城り居を、六年從四位下り昇と、紀伊守りあらたむ、八年七月二十八日千姫君、秀賴〓御婚儀あふ北とき、あらクし〓大坂城り在て御輿成むろふ、十一年本城經營北事をはとめ、十五年尾張國名護屋り新城を築クなゝ比とき、本丸ろ普請を助く、十七年正月東照宮名護屋り渡御比とき、大鷹一居をよひ御鷹北鶴をとはふ、十八年八月二十五日和歌山よをいあ卒そ、年三十八、春翁宗雲〓光院と號を、和歌山比大仙寺リ葬る、室ハ池田紀伊守信輝入道勝入り女、長晟天正十四年若狭國小濱よ生な、幼稚北ときよを豐臣太閣比傍またりふ、一日東照宮と圍碁ある比とき、其石を溫めて獻に、東照宮其けろし