附錄き事成よミしあまひ長晟成人比ゝち、た〓〓其むとゝあとを稱譽あり、比ち小性組比頭となり、慶長二年采地三千石をあさへらを、從五位下右兵衞佐り叙任も、ニ時も十七ち東照宮りばりへきてまりを、十四年但馬守歲にあらたむ、十五年大坂よを京師りうりて、備中國みして二万四千石をさはふ、十八年兄幸長卒して嗣なきにより駿府城りめさ〓〓、其遺領ををまふ、お比ときけ〓比所領を收めらる、十九年西城石垣茗普請を勤む、九月大坂ろ亂おこる比とき、仰をうきあるハりて封國りりると、十月國中共兵一万餘人を引率し〓住吉り發向し今宮ゐ陣を、十一月十八日蜂須賀阿波守至鎭とはクであ、敵將大野主馬首治房、薄田隼人兼相等クもも終る穢多崎〓坂を攻るしとて、本多正純をして上意をうかゝひ、十九tc日彼城りむろふ、又舟をうろへて葦島りわとり、海上より攻入むとも、城兵仙波町を燒はらひ城內り引むときし旅追うちしあ、首十餘級を得、なク〓岡山比御陣營りをそは67としろい、台德院殿其功比もみやあお部事を御感あとこ、使者リ吳服をさはふ、後吉野熊野比凶徒等一揆成れこし、新宮城を攻んとを、時り家臣淺野右近忠吉り家人戶田六左衞門勝直、新宮町中北人質をとで、手比者をよひ〓民等二千餘人をひきねあ、新宮川をとさり賊徒をう〓〓、一揆等敗北し〓吉野りに多さなりよと、ものよし長晟あ許り告來りけきハ、もぬいち本多正純をして言上まをよふ北面thとこる東聚き勝直る軍功を賞思せち呉まら御國石田日高爾郡にをいそ、大坂H催促り〓さっひ、一揆をおこそ者ありしクハ、兵士二千人成りりいしてあとを平をし先上聞に達を、東西和議なる比ゝち、士卒をして大坂城比石疊を毀ち堀をうりりめし〓、歸國して一揆比殘黨を誅も、元和元年大坂の兵幸さゝむれこる比とき、四月十八日和泉國佐野川よ出張を、この地い大野修理亮治長あ所領なるりよを、彼り家人大野茂左衞門某、中村善大夫某等、むきろよ乘船しあ來り、一揆等を催し陣營を襲ろんとも、長晟えやくふをを玄て、中村を虜よし大野を誅戮きしろハ、賊徒等えまさ離散を、二十九日大坂北兵四万餘騎大野治房〓大將として、御宿(1),越前正倫、岡部大學某長岡監物某、塙團右衞門眞之等あとりゑさろひ、和志んたり泉國を侵掠して助松よ陣も、この時長晟ハ信達に陣し、兩軍比あひたわつうき三千餘町多り時き最之等八町吸方軍を出し、井井其里を放火