附て進來るまより、家臣上田主水重安もゝみ戰ひ、眞之と一番に鎌をあとせて、たろひま疵をろうぬれ、龜田大隅高綱樫井北河上より、横さはり突て入奮戰を重安敵と組て殆あやうし、家人等來ぞたも多て其首級を得とり、まさ家臣多胡助左衞門某、安井喜內正忠、岸九兵衞勝久、をよひ淺野左衞門佐氏次の郞從八木新左衞門某、松宮勝介某等十餘人奮戰し、新左衞門某眞之茂うちとな、彼ハ勇力比士ふり、宏うれともはした重安あ爲よ創をかうぬるにより、新左衞門あき残うちとな事を得さり、助左衞門よく弓を射、高綱ゐ同心等數十人よ々銕炮を發りふより、監物某等けゝあな事あといたしてにねり敗走も、おをを追うちゑ〓、甲首十二級を得とり、お比とき家臣等創をろうふな者まと多し、則使をとせて彼首を伏見に獻も、東照宮使者を御前りめされ、合戰北あとさぬを御たつもありて、其軍功を感しゑゐひ、晦日御書を下けを使者もまさ馬〓をるいる、五月朔日台德院殿よりも御感狀を下され、且使者りたすものある事前りおふし、後封內りをいて、再一揆蜂起もな比よし告ありを終さ兵を收めて領國よりるて、大坂沒落北ゝち上洛も、十日二條城りをいそ東照宮に拜謁し、信達比軍功效賞譽あり、あ孔とき樫井よをいそ力戰せ-家臣等を、御前り伴ふるき旨仰あるにより、主水重安、大隅高綱、助左衞門某、喜內正忠、九兵衞勝久を召此やきて、登營をしむる比ところ、もあハち御前り召を、長晟の戰功比類ふし、汝等も身を捨勇を勵も事神妙ありとの御諚ありて、金銀衣服をさまふ、まと伏見城まをいて台德院殿り拜謁し、家臣等も御前よ召なゝ事前比如し、七月十六日從四位下よ叙も、十一月二十四日振姫君を嫁さし〓たまふへきむね、台命成クうぬる、二年正月十九日姫君入與あを、三月十八日母比喪りまえな北とき、精進をとくるき比旨仰あてて鶴を賜ハる、後東照宮御不豫〓よで、駿府城り參ヱて御起居を伺ふ比時、玉堂比御茶入をとはふ、えれ長晟の家比寶器よしあ、さたまたそまりてしところふり、三年九月五日領知北御判物を下さる、五年七月十八日加增あり、且封地をうりさを安藝國をよひ備後半國をたるいり西十二万六千五百五餘放組に安於國沼田郡廣島近3住を六年四十二月十六日上使もて、御鷹比鶴をたまふ、後例となな、八年仰をうきく加藤肥後守忠廣とれあしく、本城天守臺石垣芝普請をたとむ、寛永三年御