附上洛比とき、亥さりひたくまりと、八月十九日侍從に任し、大猷院殿御參內比供奉浅勤む、九年九月三日廣島りをい〓卒も、年四十七、洞雲宗仙自得院と號を、廣島比國泰寺り葬る、十九日老中酒井讚岐守忠勝をえりて、賻銀五百枚を賜ふ、室ハ東照宮比御息女振姫君、元和三年八月晦日和歌山よ〓いて逝を、年三十八、英譽果悅善芳ご〓院と號を、京師新黑谷ろ金戒光明寺よ葬る、後た〓よ廣島は一寺〓營〓、、〓〓院と號を、光晟元和三年和歌山よ生な、時よ台德院殿洛よ御座ありしクハ、嘉儀として御使をさはふ、九年御上洛比とき上京し、はしめて台德院殿よ拜謁時ろし、御刀、脇指、をよひ時服をさまふ、七時歲、寛永四年八月二十六日大猷院殿比御前よ〓いて元服し、御諱字をたまひ光晟とあ比り、まと松平比御稱號をたまひ、從五位下安藝守は叙任し台德院殿より正宗比御脇指、大猷院殿より當麻ろ御刀成賜ハ〓、九年十月二十九日遺領を繼、大廣問リ候を、後代々れあし、十一月朔日襲封を謝もな比とき、父ク遺物正宗比脇指、玉堂ろ茶入を獻も、是日家臣五人御前よい〓、二日領知比うち五万石を、庶兄長治よわろちあさふ、是時さきり獻せし玉堂比茶入を拜賜し、六日はしめて入國ろいとは成あまふ、十一年大猷院殿洛よ比ほらをとはふ比とき、ゑさろひたあまりて、七月十六日從四位下侍從り昇進し、十二年六月十四日けきよ本城石垣普請比事をたとたしところ、其功速りありしを賞きられ、もの事よあつりてし家臣等に物をたまふ、十四年二月仰をうきたるハりて御天守臺成築く、寬文四年四月十八日滋野井中將〓廣罪ありてめしてめをられ、五年十二月二十七日少將りそゝみ、六年先まありきられし〓廣ク罪をゆるされ、十二年四月十八日致仕し、五月十八日得物正宗比短刀をよひ玉堂比茶入をとてはりて、御臺所り冷泉爲相筆比古今集をはいらも、延寳元年九月十八日紀伊守よあらたえ、元祿六年四月二十三日廣島は成いく卒に、年七十七、仁嶽良寬玄德院と號も、葬地長晟よれあし、五月四日奏者番田村右京大夫建顯をもて、賻銀三百枚をさはふ、室ハ松平肥前守利常の女、光晟ク許リ入興北とき、假り大猷院殿北御なしれひとある、